本を積む人

積んでいる本を崩しては読み積んでは崩し……積み読み積み崩し積み罪

最古の積ん読―アレクサンドル・デュマ『ダルタニャン物語』全11巻

積ん読リストを作成した。

 

hontumi.hatenablog.com

 

ブログタイトル下の「BOOKS」からも飛べる仕様にしてある。ご興味がおありの方はどうぞご覧いただければ。

きっと「この人、アホか」とお思いになることだろう。

私も作っていて思った。

 

それにしても私の積ん読、面白そうな本ばかりじゃないか。

これはもう勉強したりブログを書いたりしている場合じゃないじゃないか。

よし、今夜は朝まで読みまくるぞ!

 

となれば話は簡単なのだが、そうはならないから厄介なのである。

積ん読のはじまりは「面白そう!」、ここに、ただここにのみ存在する。

「あら、素敵な装丁…どんな話かしら。ちょっと失礼してあらすじを…、…何これ面白そう!買っておこう!」

なんたる単細胞。

でも、そんなものじゃないか。

あの大学を選んだ時も、あの人に恋した時も、あの賃貸家屋を選んだ時も。

「いい予感がする」

面白そう、というのは、そういうことじゃないか。

 

と、盛大な弁解をしておいてから話を元に戻すと、

「私の積ん読、本当にもう最高!」

これは嘘偽りない感情だが、かといってすぐさま他のすべてを忘れてのめりこむわけにはいかない。

やはり生活あってこその読書だから。

逆に言うと、生きるうえで甘えが大幅にきく時期は、もう読書!ひたすら読書!という永遠とも思える蜜月がほぼ可能だった。

学生時代などその最たる例だろう。

 

私の場合は、通学が片道3時間、往復6時間。1日の4分の1は電車に揺られる高校生活を送っていた。

いま思うと「あの頃から私ってオールマイティにアホだったんだな」としみじみするが、おかげで通学時間をすべて読書に費やすことができた。

そうでもなければ中退していたかもしれない。

(と言いつつ、しょっちゅう学校をさぼって本屋に入りびたりもしていたのだから、やっぱりまあ、アホだな)

親からもらった昼食代をそのまま本代として着服し、「苦学生のようだわあ」とうっとりしたものだった。

書けば書くほどアホが露呈していくが、衣食住には困ることなどなかったし、お金の面で生きるか死ぬかの瀬戸際に立つことは、まず起こらなかった。

最悪、高すぎて高すぎて1週間ぶんの昼食代(500円)でも買えそうにない本は、親に頭を下げれば手に入った。

だけど、やっぱりできるだけ自力で何とかしたかったからバイト代はすべて本に消えた。

(忘れもしない、最初のバイト代で買った本はミヒャエル・エンデの『はてしない物語』だ)

バイト代を学費の足しにするという考えなど頭をかすめもしなかった。

そんな甘やかしの中では、かえって積ん読は生じない。

何だかんだと、1冊の価値をかみしめていたのだと思う。

 

いま、こんなにもあふれんばかりの積ん読のさなかにあって、

「老後は安泰ね」

とほくそ笑む、その反面。

十代の、未熟な頭をめぐらせて本屋さんの棚の頂点をあんぐりと見上げ、まだまだ幼い足でせいいっぱいに背伸びをしていた頃の不足感。

積むどころか誰あろうこの自分の膝から崩れそうな危うさ。

そういったものがひどく恋しく思える。

 

長々と書いたが、要するに、あるていど安定しているから積ん読は成立する。

さすがにこの年になって「食より本」は厳しい。身体的にも、外聞としても。

そこそこ見栄を張って積ん読をしていたい。

積ん読そのものをやめる気はあまりないあたりが、やはりアホである。

 

さて、改めて積ん読リストを眺めてみた。

この約250冊(活字本だけなら200冊)の中には、再読のための本も含まれている。

実家を出た時に厳選した約30冊がその基盤となっている。

その30冊の中も、既読のもの、未読のもので構築されていた。

(そこから徐々にふくれていって10年かけて200冊というアホっぷりはさておく)

例を挙げると、『銀河英雄伝説』全10巻は中学時代に完読していたので、既読。再読目的で持ってきた。

未読の本の方が圧倒的に多いが、その代表選手がアレクサンドル・デュマの『ダルタニャン物語』全11巻である。

 

実はこの『ダルタニャン物語』(講談社文庫)とは非常に長い付き合い。

まず小学校の頃、父親に全巻を買ってもらった。

文庫とはいえ新品だったから、結構なお値段がしたはず。

当時NHKで放映していた「アニメ三銃士」にはまった私がねだって買ってもらったのだが、原作はなかなかの難敵であった。

 

「アラミスが原作だと男だって、あれウソじゃないんだー!すごーい!」とか、

「ダルタニャン、えっちだよね…?」とか、

ポルトス、原作でも大体こういう扱いなんだなあ」とか、

「原作ならアラミスよりアトスがいい。アトスかっこいい」とか、

「あれ?でもアトスとミレディって、…ええー!」とか、

「ボナシュウぅぅぅ…」とか、

けっこう楽しく読めた。2巻までは。アニメの原作相当箇所までは。

その後のマザラン体制の話になると、もうお手上げ。

何度か挑戦はした。そのたびに挫折した。

そして本棚のスペースが足りなくなってきたこともあり、ついに私は決めた。

全巻売却を。

 

さすがに父親から一度は止められたが、

「じゃあお父さん、3巻まで読んでみてよ」

と訴えたところ、父は黙って古本屋に車を直行させてくれた。

 

それから約10年後。

大学を卒業した私は「ダルタニャン物語を売るとか!当時の私!アホ!バカ!アホ!」ともだえていた。

今はどうか知らないが、当時、すでに絶版。

かろうじてつながるインターネット(黎明期)をたどって本好き掲示板か何かで相談し、「この古本屋で全巻セットで売っている」と教えてもらった時の興奮といったら!

あの時、親切にいろいろと教えてくれたお兄さん、ありがとうございます!お元気でお過ごしでしょうか。どうか風邪など召されずお健やかでいらっしゃいますように。

 

1週間ほどで届いた『ダルタニャン物語』は、私が持っていたものとは少し違っていた。

講談社文庫であり、訳者も同一人物だが、背表紙が白。

私が父に買ってもらったものは背表紙がおなじみの黄色だったから、恐らくそれよりも前の版なのだろう。

 

黄ばんだ紙魚が泳ぐ『ダルタニャン物語』。

今度こそ読み通すのだと心おどろせた。

何しろ大学では西洋史を専攻していたんだしね!

最近、映画化もされたしね!「仮面の男」がね!

マザラン(なるほど、マゼランじゃないのね)編なんて怖くもないわ!

「仮面」編まで一気に行くぞ!

1ページは全体のために、全体は1ページのために!

我らは本好き、結束は固い!(どこかのお兄さん、本当にありがとう!)

 

あれから20年。

未だにマザランを超えられない。

 

あえて極端なこと言おう。

これはもう小学校時代から数えて、約30年ものの積ん読である。

訳も話も好きなのに、妙に身構えてしまう『ダルタニャン物語』3巻以降。

こうなったら生涯の目標の1つにするしかない。

『ダルタニャン物語』の通読こそ我が読書人生の、そして積ん読人生の行くべき先なのだ。

 

ダルタニャンだって1巻でガスコーニュからパリまでやってきて、一人前の銃士になるまで紆余曲折があり、そこから先は未読ゆえ想像でしかないが恐ろしく波乱万丈な日々を過ごして、何歳になろうとも常に成長していたはず。

剣と正義に賭けた(であろう)命は、第11巻の「剣よさらば」で尽きる(んだよね?)。

ダルタニャンにとって最後に呼びかける「剣」とは何か、それを読まずに私も「さらば」とは言えない。

 

ダルタニャンたちは銃士だが、私の本棚の中では王座にいる。

私の尽きぬ夢想とあこがれの中でも。

 

『ダルタニャン物語』は、私とはそうした、不思議と切れない縁でやわらかく結ばれているのだ。

まさに別格。

長編ゆえに読みきれない作品は他にもあるが(『銀河英雄伝説』も再読できていない。ただし同じく田中芳樹の『アルスラーン戦記』は第一部と第二部の前半を再読、後半はリアルタイムで最終巻まで読んだ。まさか完結するとは…)、その多くは全集。

須賀敦子全集』も「死ぬまでに読み終えたいもの」のひとつだけれど、これは細切れに読んでも何とかなる。

 

『ダルタニャン物語』はぷつりぷつりと切れそうな糸でのつながり方を感じるからこそ、通読したい。

1ヶ月ぐらい集中してがんばれば何とかなる…かなあ、と、希望だけはずっと消えることはない。

その根っこには、やはり、最初に読んだ時のあざやかなおどろき、どきどき、そして「難しいけど面白い」というはじめての複雑な喜びの感覚が残っているからだろう。

私もまだ、成長したい、と願っている、その証に他ならない。

幸福なことだ。