「平成」が終わる前に読みたい積ん読本
平成最後の夏があった。
平成最後の秋があった。
よほどの異常気象でも起こらない限り、今まさに平成最後の冬だろう。
平成最後のクリスマス、平成最後の大晦日、平成最後の元旦、平成最後のセンター試験、平成最後のバレンタイン、などなど。
実際にそう呼ばれていたかは知らないが、とりあえず、大抵のことは「平成最後」だった。客観的な事実でもあった。
今日だって「平成最後の2月19日」だ。
そう考えると「何かの枠の中で、『今日が最後の2月19日』とはっきり言えるって、何かすごいな」と漠然と思った。
どうせなら「平成最後の閏年」と言える日があってもよかった気がするのだけれど、最近の閏年といえば2016年。
そのころはまだ天皇陛下の生前退位に関する話は出ていなかったと記憶している。
2016年に「今年は平成最後の閏年なんだよね」とうっかりこぼそうものなら非国民あつかいされたのではなかろうか。2年ちょっと後にはエスパーとして崇められることにもなろうが、「でもまあ、なんていうか、空気は読みなよ」とのそしりはどうしても免れまいな。
私はといえば、「平成最後に買う本は何だろうなあ」「何にしようかなあ」と、流れに任せるか自己決断するかの狭間にいる。
「積ん読リスト」がある一方で「読みたい=買いたい本リスト」も存在するから、迷いはいっそう深くなる。
が、「現時点での積ん読の中から、平成が終わる前に読みたい本」は、数冊ほど決まっている。
「平成が終わる前に読もう」と思って買って積んでいる本も、ある。
もはや平成最後とか関係ない気がしなくもないが、一応、心がまえというか、けじめというか、記念というか、ノリというか。
何故「平成最後に読む本」ではなく「平成最後に積む本」なんだろう、と首をかしげるふりをするそのこころは「平成最後って便利だな」である。
毎度ながらごめんなさい。
しかしながら、真面目な話をすると、「平成が終わる」「平成が終わっていく」この日々をカウントできる状態は、なんだかとても不思議だ。
私は昭和が終わった日のことを、そこそこ鮮明におぼえている。
1989年、昭和64年、1月7日。私は小学6年生だった。
朝、起きると「天皇が亡くなった」と親から知らされ、その後に小学校の連絡網で臨時休校の知らせが入った。
「天皇が病気で容態がよくない」という状況は、さすがに小6ともなればニュースなどを通して頭に入ってはいた。
ただ、「天皇が亡くなる」ことと「昭和が終わる」ことは、うまく結びつけられていなかった気がする。
その日になって「元号が変わります」とテレビでくりかえし聞き、「あ、そうか」とようやく納得したほどだ。
しかも、ここから私の記憶は錯綜していて、天皇崩御から「平成」の元号発表まで2日ぐらいあった、とずっと覚えちがいをしていた。
その日の午後2時に「平成」の文字を見ていたと知ったのは、本当につい最近のことである。
先月だったか、年末だったか、そのあたりにコラムか何かを読んでいて驚いたから、実に29年間も脳みそが部分的にやられていたことになる。
学校の教室で「新しい元号、何になるんだろうね」と友達と話していた思い出があるのだが、もしかしたら臨時休校の方も虚構で、実際は学校に行ったのかもしれない。
短縮授業になってお昼に帰宅し、「平成」の発表を見た。これなら辻褄が合う。
いや、でも、「平成」の発表までテレビのチャンネルをあちこちに変えては「テレビ東京すごい」と感心したおぼえもあるから、どうなんだろう。
記憶力にはちょっとした自信があったのだが、今回の件でもっと自分を疑わなければと姿勢を新たにした。平成最後の自戒…にならないよう我が事ながら祈る。
昭和から平成になって、何が変わったか。
これはもういろんな人がいろんな立場や角度から語っていることだろう。
私ははからずも「昭和最後の小学6年生」になり、「平成最初の中学1年生」になったわけだが、当時はそんな意識もなかった。
(よく考えると昭和63年に中学に入学した人も「平成最初の中学1年生」に相当するのか。ややこしいな)
式典などでその表現は使われていたのだろうけれども、特に印象に残るほどではなかった。
ただ、元号ネタは小学生の間で大変な人気者となった。
かくいう私も友達と「私たち、いつか『昭和ババア』とか呼ばれるようになるんだろうねえ」といった会話を、飽きずにくりかえしたものだ。ええ、アキちゃん、予想よりもずっとその日は早くやってくるよ…覚悟するがいいよ…。
「平成は戦争のない時代に」、これはしょっちゅう耳にしたスローガンだった。
これに関しては、ちょっと背のび癖のある子どもだった私は、ぼんやりながらもいろいろと考えをめぐらせた。
昭和天皇崩御をもって昭和の歴史の後片付けも終わらせてしまうのだろうか、とか、平成と昭和を完全に切り離すことは可能なのだろうか、とか。
昭和を振り返ると、やはり戦争の影が色濃いものだから、平成をかえりみるときにそういうことがないように、という願いであることは分かった。
けれど、今、平成の約30年を見渡すと、必ずしも平らかだったとは、やはり言えない。
私自身の体験と照らし合わせると、何よりもまず、阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件が「平成」の象徴として浮かび上がってくる。
何故、これが私の体験なのかというと、私は体験していないからだ。
この時期、私は高校2年生。イギリスに留学していた。
どちらの報も、イングランド中部のホストファミリーの家で、テレビで見聞きした。
阪神淡路大震災が平成7年、1995年の1月。
オウム真理教の地下鉄サリン事件は、そのわずか2ヶ月後の3月。
「日本って思ったより物騒な国なのね」とホストマザーが驚いていた。
私は「地震は天災だし、サリン事件は異常すぎ、どちらも例外だと思ってほしい」と伝えようと持てる限りの英語力を尽くしたが、通じたかどうか。
イギリスに留学した当初、多くの人から、「日本って地震があるんだよね。どんな感じなの?」としょっちゅう聞かれていた。
興味の対象がそこなのか、と、とにかく意外だった。
サリン事件がBBCで報道された時、日本のワイドショーのVTRが紹介されたこともあった。
ホストファミリーに「日本語の部分を訳して」と頼まれ、「戦後最悪の事件だと言っています」と答えたところ、「戦後って、どの戦争?」と返ってきて一瞬ことばが出なかった。
私にとって当たり前のことが、この国ではまったく当たり前ではない。
その現実は、出国前の私の予想や身がまえを遥かに超えていた。
そしてブラウン管に映る倒壊した家屋や地下鉄の外でうずくまっている人々が、ひどく遠く思えた。
それから数ヶ月後の6月に帰国。
日本は何も変わっていないようで、何もかもが変わっているように見えた。
普段からの防災意識や、駅にゴミ箱がない風景。
友人との他愛ないおしゃべりの中にも、うっすらと違和感が漂っていた。
「1年イギリス留学しても、あんたはびっくりするほど変わらないねえ」と友人に揶揄されたものだが、私からすれば、「あなたたちは変わった、ほんとうに変わった」と言ってみたくて仕方がなかった。
けれど、何がどう、とは明確にはつかみきれていなかったので、「1年ぐらいじゃ人間なんて変わらないよ」と笑って済ませていた。
あのころを境に、私の中の日本の、何がどう変わったのか。
未だにはっきりとはわからない。
ただ、私はあの大きなふたつの出来事に、日本人として参加できなかった。
その感覚だけが拭い去れないままずっと残っている。
批判や非難を覚悟で言ってしまうと、東日本大震災に関しても、私は周囲との温度差にとても戸惑った。
今でもその、ずれのようなものは、ある。
「平成」を、私の目線で見つめると、たぶん、こう集約できると思う。
焦点の共有がすごく難しくなったのに、それができなければ仲間に入れてもらえなくなった時代だった、と。
天皇が生前退位を希望し、決定した背景には様々な事情があるだろう。
想像するしかないのだが(そして恐らくこれも不敬というか、単純に失礼なことではあるのだが)、天皇が生きたまま天皇をやめて、平成を終わらせよう、終わらせたい、と願う、その理由は、それほど困難でも複雑でもないのではないか。
簡単なことほどそうそう出来るお立場ではない(はずだった)から、周囲がそこに何かしら崇高で美しい装飾を付け加えようとしているだけなのではないか。
似た例として、前ローマ法王ベネディクト16世の生前退位がある。
実はというか私はカトリック教徒なのだが(成人してから受洗、現在まったく教会には通っていない)、同時に独学で歴史研究も続けてきたので、「これは歴史的瞬間に立ち合ったなあ」と好奇心でいっぱいになった。
ベネディクト16世の敬虔さや霊的謙虚さに打たれるよりも、「またコンクラーベが見られる!」とか「次はついに黒人の方が有力候補らしいですよね」と、俗っぽさ全開で事の成り行きを見守っていた。
生前退位の理由は、法王ご自身の公式見解もあったし、マスコミもこぞって色々と言っていた気がするが、「法王としての公務に限られた時間を費やすよりも、ひとりの信徒として祈ることに人生を捧げたい」というシンプルな欲が核心に近いように思う。
「この苦悩のもと常に神と対話し、ついに赦しの光明を得て…」といった表現は、カトリックとバチカンの文化に沿った言動だろう。
世の中の多くのことは、文化のセンスがあるかないかでかなり左右される。
文化に染まるセンス。文化を読みとるセンス。文化に合わせるセンス。文化の違いを許容するセンス。
「今はそういう時代なのだ」は「今やそういう文化なのだ」と似ている。
似ているだけで同じではないから、注意してものごとを見なければならない。
長々と書いたが(私は短文を書くのがアホのように下手くそだ)、私にとっての「平成」は、恐らく今年の5月以降も続く。延々と。
それはそれとして、気になるのは「平成以降」だ。
イギリス留学中、ホストファミリーと「ポンド札の絵ってエリザベス女王ですよね。これがいつかチャールズ皇太子というか、キング・チャールズの肖像になるんですね~できればずっと女王さまの方がいいかな、なんて」と笑い話のつもりで言ってみたら、「どんな顔だってチャールズよりはましだからね」と真剣な表情で答えられたことがある。
大変失礼ながら、「あの皇太子が天皇に…なるのか…」とか「雅子妃が外交官出身だから皇室外交が活発になる、と婚約時代は話題になったのに、いざ成婚したら『分を超えた野心はNG』になったよなあ…」「それで雅子妃がああなってこうなって、皇太子が『主にマスコミが雅子妃を否定した』みたいなことを会見で堂々と言い出して朝日新聞に最高のネタを提供したしなあ…」とか、いろいろ危うく思うところがある、というか、あって当たり前だろう。
(これでも話題が話題だから頑張ってオブラートに包みまくっているつもり)
平成天皇が、一時的に自分の父親が「神」になったり、その後で「人間」「人間天皇」「象徴天皇」に戻ったり、そうした大きな混乱の中をかいくぐって今に至るお方なのだと考えると、「やめたい」と仰るなら静かに「お疲れ様でした」と頭を下げたい。
平成最後の天皇誕生日のスピーチでも「象徴天皇」の単語がくりかえし使われていた。
平成天皇にとっての「平成」は「象徴天皇であることに尽くした人生」でもあるだろうし、それを受け継いでいってほしい感情もあおりだろう。
私が私の「平成」に何かを付与するとしたら、「そういう天皇を象徴として掲げる国で、そういう象徴天皇が自ら退いた時代」だ。少なくとも、そうなる予定だ。
それが揺らがない時代が、平成だった。
だからこそ、平成以降が気になる。
新しい時代が必ずしも良い時代とは限らないから、でも良い時代かどうかなんてその時代が終わらないと分からなかったりもするから、せめて次の次の元号発表まで生きて、また振り返りたい。
そのとき、私の中の「平成」が終わっていれば、いい。
私が終わりゆく「平成」を思うとき、よすがとするポイントがいくつかある。
それを念頭に置いた上で購入し、「平成が終わるまでに読む」つもりで積んでいる本は、このあたり。
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
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実際は、下2冊は再読に当たる。再読しようと思って持っていて、積んでいるという、その類。
上2冊は「平成が終わる前に」という動機としては分かりやすいと思う。
(実は結構好きなジャンルの1つ、皇室もの)
カズオ・イシグロの『日の名残り』は、知性と品格と、時代の流れ、「あるじ」という存在。
須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』は、異文化と個人主義、「父」という存在。
あと、「平成が終わる前に」と思って買って積む暇もなく読み終えた本は、これ。
よくばって更に足すとしたら、以下すべて再読で、
アドルフに告ぐ 漫画文庫 全5巻完結セット (ビジュアル版) (文春文庫) [マーケットプレイス コミックセット]
- 作者: 手塚治虫
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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- 作者: アンネ・フランク,Anne Frank,深町真理子
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GLOBAL GARDEN コミックセット (花とゆめCOMICS) [マーケットプレイスセット]
- 作者: 日渡早紀
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チョイスの根拠をここで語るつもりはないが、私の中では一貫している。
まあ、これらすべてを「平成が終わる前に」読みきれそうにないので、最低限でも最初の4冊と、「アドルフに告ぐ」かなあ。
あと遠藤周作の狐狸庵先生もので、横井庄一さんについて書いた短いエッセイがあった。天皇制ではなく、昭和天皇そのものについて鋭く言及しているので読み返したいが、どの本だったか…。
その発言から連想していくと、これもアリかもしれない。
- 作者: トマスハリス,Thomas Harris,高見浩
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2000/04/12
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「あのとき、警察はどこにいたので?」という台詞が重要。
でも飛びすぎか。新元号になってから再読するのでも遅くはない。
(それにしても「GLOBAL GARDEN」、文庫になってたのか…買いたいな。これ、実家に置いたままなんだよな…『ハンニバル』も…『ハンニバル』どころかレクター博士もの…まさか平成最後の積ん読が再読トマス・ハリス大人買いなんてことはない…よね。アンソニー・ホプキンス様を拝みたいからどちらかというとDVDだな)