50では足りない―橋本治氏の「バカ」をもっと聞きたくなる本の感想。
前回の記事で「平成が終わる前に読んでおきたい本」について書いた。
積ん読罪人としてあるまじきことではあるが、その中で、事前に予約し、届いたその日の内に読みはじめ、既に読み終えてしまった本がある。
久しぶりに、実に久しぶりに、一秒たりと積まれずに読まれた本。いとさんたら積まずに読んだ。私、そんなことができたんだな。
どんな本かというと、これ。
正式なタイトルは『思いつきで世界は進む―「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』。長いなあ。
上のアマゾンリンクでは帯が追悼用のものになっているが、私のところに届いた本はまるで橋本治の死などなかったかのように、
「バカにバカ」って、言っても通じないこの国で
とだけ力強く謳っている。
何故、この本を「平成が終わる前に読もう」と思ったのか。
著者のご逝去のタイミング、としか答えようがない。
あとは直感。
橋本治の作品が特段に好きというわけではない。
それほど読んでもいない。
ただ、この人がとても面白い人だという印象はずっと持っていた。
『桃尻語訳 枕草子』を読んで「うわお」となり、著者近影を拝見して「ゲイなのかな」と妄想し(色々な意味で失礼すぎますよね本当にごめんなさい)、『窯変 源氏物語』では「光君と頭中将はそういう仲になるよね?ね?」と期待し、…中学生でそういうお年頃だったんです。本当に、本当に、ありがとうございました。
(『窯変 源氏物語』への明後日すぎる熱は高河ゆんのマンガ「源氏」の余罪でもあると主張したいが、いかんせん源氏ちがいも良いところだわな)
編みものができるようになったのはここ10年ぐらいのことだが、氏の編みものの本も読んでみたいなあと思う。
恐らく普通の編みものの本ではなかろう。絶対に変な本に違いない。すごく面白そうだ。
私にとって橋本治は、それほど好きというわけではない、そんなに読んでもいない、だけれど我が読書歴において確かに抜きん出ている存在だ。
中学生の頃に『窯変 源氏物語』を読むことは、ちょっとした冒険だった。
経済的にも、読解力でも、いっしょうけんめい背のびをして文字を追っていた本。
はじめて触れた源氏物語でもあった。
そういえば何故か大和和紀の「あさきゆめみし」は大学生になるまで読んでいなかった。
そして、その後、どのバージョンの源氏物語に挑んでも、須磨に飛ばされるあたりで私の興味もよそに飛んでしまう。
『窯変 源氏物語』を、そこまでしか読んでいないからだろう。
私の源氏物語的亥の子餅は『窯変』で頂きたいの。他じゃだめな身体になってしまったの。
角田光代版『源氏物語』ももう気になって気になってしょうがないけど、やっぱり『窯変』がいいの。理屈じゃないの。
中学生時代に刻まれた思い込みは生涯、消えることはない。
だからこそ中二病は不治の病とされているのだ。
(ちなみに『窯変 源氏物語』は4巻まで読んで実家に置いてある。が、改めて最初から読み直したい。もちろん文庫ではなく大判で。今のところ仮想積ん読状態。いつ実体化するか、この状況ではまこと図り知れぬよ)
そういう経緯があったからか、橋本治の訃報は、実はあまりショックではなかった。
「ああ、ご無沙汰していました。そうか…。ありがとうございました」
心境としては、こんなところだった。
そしてこの『思いつきで世界は進む』が出ると知り、一も二もなく予約ボタンを押したのだった。
約20年ぶりに読む橋本治の本。
読みはじめてまず最初に思ったことが「電車の中では読めない」、これだった。
面白すぎて、つい吹き出してしまうのだ。
「危険ドラッグじゃなくてバカドラッグでいいだろ」で笑い「子どもは邪悪な気配のする画数の多い漢字が好きだから教えてやれ(道徳の授業で)」でも笑った。
こうやって書きながらざっとページを探ってみても、まだまだ笑える箇所は山ほどある。
ただし、「それは極論すぎやしないか」「これは短絡的すぎではないか」と思う面も、同じくらいちゃんとあった。
極論に関しては、その大半が「~じゃないかと思うんですけどね」で締められているので、極論のかたちをした問題提起である可能性のほうが高い。
読みだしてからしばらく「意外だな」と感じたのは、「~だと思う」が多用されていることだった。
橋本治なら「~だ」「~であるべき」と断言しそうなものだと思うんですけどね。
と、私自身が文章を書くときに「~だけど」「~だが」で終わらせることに抵抗があるから、余計に目についたのだろう。話し言葉なら問題ないんだけど。あ、やっぱり何かダメだ、苦手だ。
予想よりも文章表現はやわらかいんだな、と思った。そのぶん毒舌が生き生きとしていて、とても良い。死んでなお生き生きとしてらっしゃるなんて、一読者として嬉しいことこの上ない。
この本のあざやかな面白さの根底には、言うまでもなく氏の知性が遥か彼方まで連綿と広がっている。
イメージとしては「綺麗な花畑」。
だが間違っても綺麗事ではないし、花畑といってもアッパラパーなアレであるはずがない。
今どき珍しいほどの純粋な「綺麗な花畑」、さすが橋本治である。
橋本治にとって、無知とは「無恥」だ。「無恥」とは、「ダサいこと」だ。
そこで思い出したのが山岸凉子。
PKO問題の折り、「日本の男性は『みっともない』という評価をびっくりするほど恐れて拒絶する。だからPKO賛成派はこぞって『日本だけが派兵しないなんてみっともない』と大きな声で主張するのだ」と巻末マンガで熱く語ってらした。
両者は使い方こそ違えど、言っていることの本質は同じだろう。
「無知はバカの罪だから他者を傷つけもするし、無恥は自分を台なしにしてしまう。どちらもとてもダサいことだから、やめときなさい。みっともない、なんていうからっぽの言葉に惑わされてはいけない。それこそ本当にみっともない、恥ずべきことなのだから」
無知と無恥が極まって、外交すらも子どもを諭すようにやっていかなければならないご時世。
なのに「もう子どもじゃないんだから」と、知恵の共有をすっ飛ばしてしまう場面の何と多いことか。
いやあ、子どもですよ。だってバカなんだもの。そして「バカは生理的に受け付けない人」はまだちゃんといるんだから、しょうがないでしょ。なんで健全な人が我慢しなきゃいけないのさ。
バカにバカって言える人はちゃんと言うべきだ。
そういう役割の人は、たとえ通じなくても、言い続けるべきだ。
おまえバカだよ、恥ずかしいよ、ダサいよって、百万回でも放つべきだ。
しかし、その役割を担える人がどんどん減っている。
いみじくも「平成最後の年になって人がたくさん死んでいる、それはその人が役割を終えたからだろう」といった文章が、この本の中にある。
ご自分のことを語っている意識は、あったのだろうか。
やはり死は思いがけないものだったのだろうか。
「あんなこと書いちゃって死んでいく俺、なんかバカだなあ、ちょっとダサいなあ」と笑いながら逝ったのだろうか。
だとしたら、きっと幸せな人生だったと思いますけどね。決して皮肉ではなく。
久しぶりだ、と思うことの多い一冊だったが、これまた久しぶりに読んでいて付箋を貼った。
目から鱗としたというか、しばらく考えるにつれて「ああ、なるほど」と染みたのだ。
忘れたくないと思ったから、頼りないほど細い、半透明の青い付箋を貼りつけた。
93ページ。
「現実はいつでもいい加減で、だからこそ「非現実的な発言」である批評が力を持つ。「批評は現実と関わらなきゃいけないんじゃないか?」と思った瞬間、批評は力を失うし、失った。批評は批評で、現実とは別次元になることによって現実と絡み合う。非力だからこそ力を持つというのが、批評の力でしょう。だから私の言うことは、現実と関係がない」
橋本治さん、ありがとうございました。
平成が終わる前に読んでおくといい。私はすごくベストな時期に読めて幸福だったと思う。ただ、内容は普遍的であるものの入り口は時事ネタだし、既にやや古くなってしまっている話題もあるので、数年後ほど積んで熟成させてから「あの頃こんな時代だったよなあ」としみじみしながら読んでも面白さが損なわれることは決してないだろう。あえて政権交代とかトランプさん引退を見届けた後で読むのも乙なものだと思いますけどね。