幸せに生きたい人の為に鐘は鳴る―目も脳も心もあたたかくなる物語の感想。
おとといだったか、文庫本を一冊、読み終えた。
おかげで積ん読が増えた。
書き間違いではない。
「この作家さんいいわあ…じゃあ気になってたあの本も面白いはず!」
こうして積ん読数はプラスマイナスゼロになっていく。
「あ、ついでにこれも買っておこう」
なんてことになるから、結果としてはプラスに。
書き間違いではない。断じてない。
それと罪人の罪の重さはまた別の話である。たぶん。
読み終えた本は、これ。
久しぶりに書店で購入した。
ぶらぶらと棚のあいだを散歩していたら、ふっと池辺葵が視界のすみをかすめたので慌てて振り返った。
棚に積まれもせず、背表紙だけをこちらに向けて挟まれもせず、「さあ、この表紙絵をご覧なさい」と言わんばかりに斜めに立てかけられていた。
うまい。わかってらっしゃる。できる。
あらゆる賛辞をこめて本を手に取り、レジに向かおうとしたその道中で今度はこれに遭遇した。
辻村深月とヒグチユウコのコラボとか反則すぎるだろう…!
本当にうまいし分かってらっしゃるし、できる!
敬意をこめて最終的に5冊、レジへ運んだ、1月の末日であった。
積ん読を回避したいならリアル書店をまず殲滅することね。積ん読を悪と思うならね。でも罪は自分との戦いの結果なのよ。弱い自分と強い自分が戦うと弱い自分が勝つと初音ミクも歌っている。
恒例の弁解はこのへんまでにして、さて、感想。
『バージンパンケーキ国分寺』とは、また風変わりなタイトルである。
決して池辺葵の絵だけにふらふらと吸い込まれたのではなく、「このパンケーキ屋さんには、バージンには鳴らないドアベルがついている」といったあらすじや、作者が雪舟えまということにも「一読の価値あり」と、私の中の本ベルが高らかに鳴り響いたのだ。
雪舟えまといえば、あれじゃないか。ヤマシタトモコがイラストを手がけた、あの…
これ。
気になってたんだよねえ。お値段お高めだから見送っていたけれど、この『バージンパンケーキ』なら文庫だし、「ホモかぐや男」本(この時点での記憶の仕方。ごめんなさい)を買うか買わざるかの、ひとつのものさしにもなってくれそう。
という、もろもろな思惑が入りまじりつつの初の雪舟えまであった。
結論から言うと、とても好みの雰囲気だった。
著者が作家であると同時に歌人だからでもあるのだろうが、ことばの使い方がきらきらとしている。
だいたいは読みやすいけれど、ふいに読みづらくもあったり、漢字のひらきが独特。
私もひらがなが好きなので、つい漢字でもいいところをひらがなにしてしまう癖があるのだが、この人はこの人らしい癖があるように見えた。
そう、「見えた」のだ。文字が文字として見えてくる。
いわゆる没入感不足というのではなく、文章の見た目も作品の一部のような、そんな印象を受けた。まるで校正までご自分でなさったのでは、と勘ぐりたくなるほどに、一文字ひともじの置き方、並べ方が、目にとても心地いい。
先に書いたように「読みづらいところもある」のは、私がそこにこだわってつい目で読んでしまったからだろう。
大半の本は集中しはじめたら、文字というものは消えてしまい、内容は脳が自動的に処理する。それが読書における優れた理解のあり方だとすら思う。
(逆に集中できない、つまりは今ひとつ面白くない本は、ただひたすら目で文字列を追うだけ。脳までスムーズに届かない。つらいのでやめたくなるが、性格上、とりあえずは最後まで読むが、心や意識に何か残るかと聞かれると返答に窮する。下手したら知識にすらつながらないこともあり、そこまで行くと「私、体調でも悪いのかな」と疑うレベルになり、かくして「万全の健康状態になるまで積ん読すべきだったんだそうだそうに違いない」という自己正当化と逃避に至る)
目でも脳でも楽しめる本には、まれに出会うことがある。本当に、まれに。
『バージンパンケーキ』は、そのまれな一冊だった。
内容は、恋愛の話になると一気に「甘酸っぺえ~…」となり、主人公の女の子の謎めいた天然思考に打ちのめされ、ラストは「それでいいの?本当にいいの?」と主人公の親友の肩を掴んで再考を促したくなる。ごめんね、おばちゃん古い人間だから。
しかし、「バージンが開けても鳴らないドアベル」とか、主人公の母親がベジタリアンであるがゆえに主人公は肉食に飢えていたりとか、いろいろと突きつめていくと、高校1年生のこの女の子は「触媒」なのだなとすんなり納得できる。
(ここからどんどんネタバレ)
「バージンパンケーキ国分寺」の店主、まぶさんは元修道女である。
その彼女がある人と恋に落ち、相手から「2人でパンケーキ屋を営もう」と遠まわしにプロポーズをされたことが、そもそもの発端。
ちょっとしたミスでまぶさんは1人でパンケーキ屋を開くことになるが、「あの人と私とで一緒に切り盛りしているパンケーキ屋が、どこかにある」と信じている。
そこで改めて表紙の絵に立ち返ると、古風ないでたちのまぶさんは、主人公の女の子ではなく、どこかをぼうっと見つめている。私の肩ごしに、ずっと遠くまで。
(帯つきのままでお読みの方は、ぜひここで帯をちょっと外してみてほしい。主人公のみほちゃんとまぶさんで、それぞれ別の次元にいることがよりわかりやすくなるから。みほちゃんの赤いスニーカーを眺めていると、その感覚はもっとずっと鮮明になると思う)
ラストでまぶさんはついに、その店へ辿り着く。みほのおかげで。
このあたりの細かいことははっきりとしないが(ほとんどみほが駆け足の想像で片をつけてしまうから)、ともかくも、不思議ちゃんな主人公みほがいなければ、まぶさんは愛する人のもとへ行けなかった。
そのために、みほという子は、処女性を保ち、肉を断たれ、そこから生じる飢餓感ゆえの膨大なエネルギーを蓄える必要があったのではないか。
気がついたら魔女修行をしていた様なもの。陽炎子さんは自ら望んでそれを体得したが、みほは「素質がある」上に、一夏とはいえパワースポットにも相当する「バージンパンケーキ国分寺」で過ごしたため、自然と育ってしまったのだろう。
ただし、役割を終えたところで能力が失せたわけでもないようだ。
「バージンパンケーキ国分寺」がなくなった後も、みほの感受性に変化はない。
そこでこの「バージンパンケーキ国分寺」という店名(書名ではなく)に思い至った。
なんで国分寺なの?
というより、
「バージンパンケーキ春日部」とか、あってもいいよね?
「バージンパンケーキ北千住」「バージンパンケーキ上野」「バージンパンケーキ成田空港」「バージンパンケーキロンドン」も。
パラレルワールド設定なら、無数の「バージンパンケーキ」店があるはず。
それらの店はどれも、いつでも誰かを必要としている。
条件つきではあるけれども、何らかの条件がないとあっという間に全店消滅しかねないので、ある程度の難易度は必要。
でもその条件は結局のところ「幸せをあきらめない」という、ほんとうに簡単なことだったりする。簡単すぎて見落とすぐらいに。
みほは風変わりな子ではあるが特別な子かと言ったらどうしても疑問が残るし、陳腐ではあるものの誰だって特別な子になる時期は必ず巡ってくる。
そう考えると、ファンタジーのカーテンの影にきちんとある現実が見えてくる。
処女判定のベルも、私は要するに「祝福の鐘」だと捉えている。
ロストバージンの体験は様々だから軽率には言えないが、できれば「鐘が鳴ること」は幸福の象徴であってほしい。
幸せな人生を送るために、がんばっている人たちの話。
『バージンパンケーキ国分寺』は、そんな、とても普通の物語だった。
ところで「媒介になるために処女性が云々でエネルギーがどうこうで」と書いていて、何だか既視感があるなあと思ったら、山岸凉子だった。
これに収録されている「顔の石」。
私が持っているのは「牧神の午後」(朝日ソノラマ)所収のものだが、「牧神の午後」に「顔の石」が収録されている理由が何となく今、分かった気がする。
更に「二日月」も「牧神の午後」収録だった、はず。
どれも「持っているエネルギーの使い方、放出のあり方」といった点が共通している。
そのエネルギーと想像力、創造力が生きる上でどう絡むか、というテーマも。
『バージンパンケーキ国分寺』には、それに近い何かを感じる。
あと、作中でまぶさんがシスターだった頃に「勤務していたミッションスクールの学校サイトを外部に作成依頼していた」ことから恋の花が咲くわけだが、色々と考えると、もしかしたらみほちゃんがいる国分寺は20年ぐらい先の国分寺なのかもしれない。
シスター・マーブルが大学卒業後すぐにシスターになれる時代を経て30歳手前で、学校サイトがある(今どきバイトの子でもできる構造らしい)…と計算していくと、時間をも超えたことになる。
もしかしたら日付を間違えた分岐点すら何かの意思である可能性も(昨年はまりまくったゲーム「デトロイトビカムヒューマン」の名残り)。
重箱の隅をつつかせてもらうとすれば、経費の問題などから一般的にミッションスクールのサイトの外注は女子パウロ会を頼るケースが多い。
盛さんの会社が「パールなんとか」で「パールさん」と呼ばれているのは、もしやパウロから取っている?
と、いろいろと妄想できる余地がたくさんあり、読後も長く楽しめる。
これは「ホモかぐや男」もいけるね!
そう確信するには充分すぎた。
もはや罪の出どころが雪舟えまにあるのか池辺葵にあるのかヤマシタトモコにあるのかよくわからない。
「ホモかぐや男」改め『BL古典セレクション1 竹取物語 伊勢物語』、楽しみだなあ。すでにこれを書いているパソコンの隣にあるからなあ。便利な世の中だなあ。
とりあえずぱらぱらとページをめくってみたら、最後に「BL古典セレクション」の続刊情報が載っていた。
2は『古事記』(海猫沢めろん訳)、3はラフカディオ・ハーンの『怪談』(王谷晶訳)らしい。
『古事記』はともかく、『怪談』?
『怪談』でBL?
え?
まさか「耳なし芳一」で坊さんが芳一さんを脱がせて「安心せい、ここにも書いてやるからのう…」「も、文字通りの筆おろし…ですか…っ!」とか、そういう展開?
うん、まあ、原作に忠実といえばそうだけど、…んん?
そんなことしてるから耳なんていう分かりやすいところを忘れるんだよ!ちょっと読みたい!
まあ、『竹取物語』でどこまでやれるかを見てからでないと何とも。
『怪談』は来月発売…そうか…。…そうか。
イラストは天野喜孝がいいな…。
芳一さん(受け)にはギリギリの線で貞淑でいてほしいからもし万一そういうことになっても何とかうまく回避して、「バージンパンケーキ下関」の鐘をいついつまでも静まりかえらせていてください。
と思ったけど「バージンパンケーキ」店のドアベルには男性向け経験判定機能は搭載されていないのであった。そこだけ何とも残念な気がするような、そうでもないような。
『BL古典セレクション3 怪談』を発売日に買いたいなら積んじゃダメ。と言いたいところだが、『怪談』は別の方が書くので関係ない。
真面目に語るなら、こういう本はいつ読んでもいいものだ。舞台設定は主に夏だが、どちらかというとくもりの日を重視したい。
でも積まれても不平を言わない本であるとも思う。そういう意味でも、稀有な本。
「バージンパンケーキ国分寺」のパンケーキは恐らく傷んだりカビたりすることはない。安心して積んで、呼ばれた気がしたら読めばいい。作中でパンケーキもしょっちゅう2、3枚ぐらい積まれているしね。言葉あそびの意味で積ん読むき。
私は『怪談』発売直前に読んでしまった感があるので、何というか、魔法はあるのだなと再認識した。こうなったらもう、積み続ける魔法で対抗したくなる。できるようになってもしないと思うけど、習得だけは一応しておきたい。