限定に弱いなら積むべし!積むべし!
購入リストを更新した。
新たに積まれた本は、本3冊、マンガ2冊、同人誌1冊。
本は、そのうち2冊が上下巻のカウントで実質1冊だし(?)、マンガはすぐに読んだし、まあ言うほど積ん読でもないな。
すごい。
積ん読ブログ開始から1週間たったかたたないかの内に積ん読が解消されつつある?
もうネタじゃなくて真剣に「積ん読瓦解の作法」に路線変更しちゃおうか!
そもそも「積ん読は罪じゃありません、罪は私にあります!」とか結構わけ分からないしね。
積ん読が順調に崩れていってるなら何よりだしね。
まだ250冊以上しっかり積まれてるけど、この調子なら半年後には更地になってるかも。
やればできるじゃないの、私。よくがんばったね。
そんなはずがない。
確かに前ほどは積まなくなったかもしれない。今月は。
積まなくなったというのは、買わなくなったという意味ではない。
(実際、買ってるし)
積まずにすぐ読み終えている、というだけのことで、相も変わらず積ん読の塔はさながら名付けを待つ姫が住まう塔の如く毅然と、かつ美しくそびえ立っている。
しかも、すぐに読んだマンガ。
それこそが問題なのだ。
ポストにことんと落ちる音がした数分後には読み始めていた。
今回のケースの第一話目が2巻に収録されていたので、ぬかりなく発掘し、読み返しもしておいた。
そしてそのままふむふむと読み続け、
「あ~ここで続くのか…ほぼ唯一、解き明かせていない重要な部分が語られようとしているところで…まあ金田一(元)少年シリーズだからしょうがないな」
と、金田一(元)少年シリーズ的な満足とともに本を閉じた、そのとき(ところで「金田一(元)少年シリーズ」って金田一一が元少年犯罪者みたいでアレだが他に表記のしようが思いつかない。ご容赦願いたい)。
見てしまった。
長年の本、マンガを愛好癖ゆえに、見てしまった。帯を。
そこに書かれていたのは、
「限定版もあるよ!」
の暴言。
3大特典付き
1.「容疑者になれる権」「応募専用ハガキ」
2.「高遠遙一クリアファイル」
3.「特製ステーショナリーケース」
ですって。
へえ。
ほう。
ねえ。
そういうことは、これ(通常版)買う前に言ってくれない…?
最近、こういうことが多いのだ。
限定版の存在はファンならば嬉しい。
特典内容にもよるが、大抵は悪くないクオリティだし、何よりやっぱり読者の萌えどころを編集部はがっちり押さえてるな、と感心するから喜んでお布施をしたくなる。
冷静に計算すると特典のポストカード1枚750円とかいう価格設定は決してお行儀の良い商売とは言えまい。
だが、我々オタクはその程度では怯まない。
歓喜の涙を流して全身全霊で釣られる。ぱっくりと。あっさりと。
発売前にもうちょっと大々的に告知してくれれば言うことないのよね…。
誰もがツイッターをやってる訳ではないし、フォローしていても見逃すこともあるし(今や情報化社会。ものすごい勢いでタイムラインをオタク情報が流れていくのよ。せめてとジャンル別にリスト分けしても面倒だから結局リストでチェックなんてしないし)。
アマゾンさんが「この本を買った人はこの本もチェックしています(約100冊)」とアルゴリズムを最適化してくれて本当に助かっているけれど(おかげさまで積ん読ましまし)、何故そこに「限定版」を表示して頂けぬのか…解せぬよ…。
以前、「この本を買うならこちらも!」と、通常版と限定版を並べて分かりやすく選択を迫ってきた時期もあったじゃないの。あれなら見逃さないから、是非ともあの調子でお願いしたい。
かと思えば半年後の新刊予約を始めた本が限定版の情報しかなかったり、ややこしい。
(危なく「おじさまと猫」2巻の限定版を購入してしまうところだった。特典のポーチは可愛いけれど、ほしいものとは今回は少し違ったな。値段は妥当だったと思う)
もう面倒だから私の好きなマンガはすべて限定版を作ってください。
買うから。たぶん買うから。
金田一37歳の事件簿(3)限定版 (講談社キャラクターズA)
- 作者: さとうふみや,天樹征丸
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2019/02/22
- メディア: コミック
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買ったから!
くそっ、こういうの何度目だよもう!またやっちまったよ!てか高いな!1巻と2巻も限定版あったのか知らなかったよ!知らなくてよかったよ!だんだん高くなってるね!でもそれは仕方ないね!
だって今回、高遠クリアファイルだもんね。
そりゃ高いよね。
むしろ安かったら腹立つわ。
高遠遙一にふさわしいお値段なのよ。何か問題が?
だって。
3大特典付き
1.「容疑者になれる権」「応募専用ハガキ」 ← コアなファン向きだな。
2.「高遠遙一クリアファイル」 ← !?!?!?!?!?
3.「特製ステーショナリーケース」 ←調べても詳細が出てこないし知らんがクリアファイルのおまけならもう何だっていい!!!!!!!
こういうことですから。
既刊の特典も一応チェックしたけれど、ピンで来たのはどうやら高遠が初のご様子…?
それだけ高遠が人気ということね。よしよし。
特に「37歳シリーズ」になって非常に麗しゅう「羊たちの沈黙」風味の高遠だものね。
買うよね。
もっと早く言ってくれれば予約して買って指折り数えてお待ち申し上げておりましたよ。
(「羊たちの沈黙」といえば昔、短編集か何かで金田一がそれっぽいことをやって明智警視に「こんなところで羊たちの沈黙ごっこですか」と突っ込まれてたけど、高遠は至極まじめにレクターごっこをやる。それでこそ高遠)
(初登場時の間抜け面も好きだけどやっぱり悪の華っぽさがあるピエロのマスクの下の高遠たまらん)
(どうせなら初登場時の最高にいけすかなかった明智警視と現在の明智警視長官を並べたグッズ作って4巻の特典にして売れ行きを競おうぜ)
(買うから。予約して買うから)
というわけで、高遠のクリアファイル(実質お値段1300円。なお、ミニクリアファイル)を見つめてはにやにやしている。
いやあ、だって表側の「37歳シリーズ版」高遠もそりゃあお美しいけれども、裏は裏でこれまでの高遠がずらりと。眼鏡高遠を見つけた時は瞳孔が開いたわ。編集部さま、よくぞ!よくぞそれを採用してくださった!講談社よ永遠なれ!
次は明智さんの出番だと盲信している。
今度こそ情報は逃さない。
その昔、オタクこわいと恐れられた杵柄の歴史にかけて――ね!
(最近はすっかりぬるくなりましたので)
で、1巻と2巻の限定についての話。
特典内容も良いし(付箋は嬉しい)、買ってもいい。
買ってもいい気分だけど、たぶん買わない。
何故かと言うと、もう転売屋さんの手にかかってしまっているのと、あと、やっぱりあのとき気づかなかったということはご縁がなかったのだと思うから。
(内容が明智満載なら迷わず買う。バイオリン少年時代のお姿もちゃんと収められているならば買わない理由なんかどこにもない。しかし既刊の内容はそうではないみたいだから、今後に期待する)
今回も、高遠だったから、というのは本当に絶大な吸引力だったけれど、もし、これに気づかずに数ヶ月ほど経っていたら。
いろいろな事情で6月(4巻発売予定)あたりまで積んでいたら。
買わなかったかもしれない。
だって高遠よ?
3ヶ月後には3倍の値がついていそうよ?
さすがの私でもミニクリアファイルに5000円とか…いや、でも眼鏡高遠…いや、しかし買わなければ分からないことでもあるから…。
いや。
いやいや。
やっぱり買わないだろう。
前述した様に、通常版を買ってから限定版の存在に気づいて購入したことは何度かあるが、それも発売からせいぜい1週間以内のことだった。
1ヶ月後だと「機を逸した」と判断して、恐らく買わなかっただろう。
理由はやはり「そういうご縁」と、あと、ファンとしての矜持。
リアルタイムで気づかず買えなかった、それは大いなる罪に対する大いなる罰。
オタクならば時に真の意味でストイックでなくてはならない。
(でも明智なら、まあ…)
だから、私は主張する。
うっかり限定なんていう商法に踊らされて泣くくらいなら、積め、と。
限定版が1万円を超え、そのあまりのプレミアっぷりに却って買い手が全くつかなくなるまで積みまくれ、と。
そうでもしないと諦めきれなどしないから。
それが嫌なら情報をしっかり把握し、慎重かつ計画的に、ベストタイミング(発売日)で購入するしかない。
そして買った以上は、内容がどんなに予想と期待を下回っても、笑え。
己を笑え。
間違っても作者や編集部を嘲笑してはいけない。ましてや呪ってはならない。
ただただ無心に、笑え。
その手にあるものは「限定版」だ。
たったひとつのその事実だけで、笑え。
ちなみに、過去に「通常版購入の後に気づいて追加購入した限定版」といえば、えーと…
文豪ストレイドッグス (16) オリジナルアクリルスタンド付き限定版 (角川コミックス・エース)
- 作者: 春河35,朝霧カフカ
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2018/12/04
- メディア: コミック
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これ。
太宰と織田作のアクリルスタンド…?
買う前に言えよう!
ていうか完全受注生産のはずなのに普通に売ってるんだね!?買うよ!そらもう!買うよ!
(これ、中也も入っていれば完璧だった)
(ところで積んでます。…積んでます)
確か、これも。
花よりも花の如く 15巻 画集付き特装版 (花とゆめCOMICS)
- 作者: 成田美名子
- 出版社/メーカー: 白泉社
- 発売日: 2016/03/04
- メディア: コミック
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買った、はず。記憶が曖昧だが、確か買った。
あの美しさには惑わされてもいい。
どうせなら大判で出せばいいのに、と思ったぐらいだから、やはり買った。
ちょっと違うけど、これも近い範疇かなあ。
LOVELESS 10巻 限定版 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)
- 作者: 高河ゆん
- 出版社/メーカー: 一迅社
- 発売日: 2011/05/25
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これは限定だから買ったのではない。
10巻の巻末が「劇場版機動戦士ガンダム00」とのコラボ漫画、と聞き、矢も盾もたまらず購入。
その巻末マンガが通常、限定の別なく収録されているのかどうか良く分からなかったので、無難に限定を買った。
ついでに言うと、高河ゆんは好きだけれど「LOVELESS」は何となく手を出さずに来た、のに、翌日1巻から13巻まで大人買いした。
(積んでます)
(あっ、限定の特典小冊子、まったく内容は分からないのにすごく好きだと思った。さすが高河ゆん)
(でも積んでます)
久米田康治「さよなら絶望先生」はOAD付きが発売されれば買ったけれど、絶望ワールドに踏み入ったのがちょっと遅めだったため、最新刊に追いつくまでに出たOADつき限定版は買っていない。
後になってから買い直すこともない。
そういうパターンもある。
そして「絶望先生」を読んでいたころは、マンガは積まない人間だったのよね…懐かしい…。
(それよりも「絶望先生」は間違えて同じ巻を買ったことが何度か。あの表紙はやらかしやすい)
意図的に両方買うことも。
こちら葛飾区亀有公園前派出所 200 特装版 40周年記念 (ジャンプコミックス)
- 作者: 秋本治
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2016/09/17
- メディア: コミック
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特装版は自分用に、通常版は別に暮らしている親用に買った。
たまには善行も積むのである。
(繰り返すが、特装版はわたくしのもの)
今後、買う予定でいる限定版は、ふじた「ヲタクに恋は難しい」7巻(OAD付き)、まだ情報は掴んでいないが恐らくアマゾン版が出るであろうヤマシタトモコ「さんかく窓の外側は夜」7巻(ポストカード付き?)。
「金田一37歳の事件簿」4巻、刮目させて頂こう。限定版で明智祭りだよね?ね?
ところで「金田一少年の事件簿外伝 犯人たちの事件簿」って「37歳」と同日に発売じゃないんだっけ?と検索しても出てこないため、さすがにネタ切れか?と不安になっていたら、ちゃんとアマゾンで予約を開始していてうきうきである。
注文、した。
ついでに高屋奈月「フルーツバスケットanother」3巻の予約ページも発見。
注文、した。
手帳がマンガの発売日で埋まっていく。
この際だから「限定版の有無をチェックする日」も設定して書きこんでおこうかな…。
絶対ないと思うけど「フルバナ」3巻に限定があって、あーやのマスキングテープとかついてきたら5冊ぐらい予約するわ…。シール1枚でも3冊は行けるわ…。
約600円のあーやシール。あれば買うだろ。当然。
限定ってそういうものだもの。
買うよ。
残る問題は、通常版と限定版で表紙のカラーリングが違うこと。
これはもう本当に頭が痛い。
両方買うしかないのか。
「通常版の後に限定版」の罠にはまった時は、カラーリングが全く同じだと逆に一瞬もやっとするのに、勝手なものね。
やっぱり積むのも手だなと思ってしまう。こんなところでこんな意義を見出そうとは、我ながらびっくりだ。
幸せに生きたい人の為に鐘は鳴る―目も脳も心もあたたかくなる物語の感想。
おとといだったか、文庫本を一冊、読み終えた。
おかげで積ん読が増えた。
書き間違いではない。
「この作家さんいいわあ…じゃあ気になってたあの本も面白いはず!」
こうして積ん読数はプラスマイナスゼロになっていく。
「あ、ついでにこれも買っておこう」
なんてことになるから、結果としてはプラスに。
書き間違いではない。断じてない。
それと罪人の罪の重さはまた別の話である。たぶん。
読み終えた本は、これ。
久しぶりに書店で購入した。
ぶらぶらと棚のあいだを散歩していたら、ふっと池辺葵が視界のすみをかすめたので慌てて振り返った。
棚に積まれもせず、背表紙だけをこちらに向けて挟まれもせず、「さあ、この表紙絵をご覧なさい」と言わんばかりに斜めに立てかけられていた。
うまい。わかってらっしゃる。できる。
あらゆる賛辞をこめて本を手に取り、レジに向かおうとしたその道中で今度はこれに遭遇した。
辻村深月とヒグチユウコのコラボとか反則すぎるだろう…!
本当にうまいし分かってらっしゃるし、できる!
敬意をこめて最終的に5冊、レジへ運んだ、1月の末日であった。
積ん読を回避したいならリアル書店をまず殲滅することね。積ん読を悪と思うならね。でも罪は自分との戦いの結果なのよ。弱い自分と強い自分が戦うと弱い自分が勝つと初音ミクも歌っている。
恒例の弁解はこのへんまでにして、さて、感想。
『バージンパンケーキ国分寺』とは、また風変わりなタイトルである。
決して池辺葵の絵だけにふらふらと吸い込まれたのではなく、「このパンケーキ屋さんには、バージンには鳴らないドアベルがついている」といったあらすじや、作者が雪舟えまということにも「一読の価値あり」と、私の中の本ベルが高らかに鳴り響いたのだ。
雪舟えまといえば、あれじゃないか。ヤマシタトモコがイラストを手がけた、あの…
これ。
気になってたんだよねえ。お値段お高めだから見送っていたけれど、この『バージンパンケーキ』なら文庫だし、「ホモかぐや男」本(この時点での記憶の仕方。ごめんなさい)を買うか買わざるかの、ひとつのものさしにもなってくれそう。
という、もろもろな思惑が入りまじりつつの初の雪舟えまであった。
結論から言うと、とても好みの雰囲気だった。
著者が作家であると同時に歌人だからでもあるのだろうが、ことばの使い方がきらきらとしている。
だいたいは読みやすいけれど、ふいに読みづらくもあったり、漢字のひらきが独特。
私もひらがなが好きなので、つい漢字でもいいところをひらがなにしてしまう癖があるのだが、この人はこの人らしい癖があるように見えた。
そう、「見えた」のだ。文字が文字として見えてくる。
いわゆる没入感不足というのではなく、文章の見た目も作品の一部のような、そんな印象を受けた。まるで校正までご自分でなさったのでは、と勘ぐりたくなるほどに、一文字ひともじの置き方、並べ方が、目にとても心地いい。
先に書いたように「読みづらいところもある」のは、私がそこにこだわってつい目で読んでしまったからだろう。
大半の本は集中しはじめたら、文字というものは消えてしまい、内容は脳が自動的に処理する。それが読書における優れた理解のあり方だとすら思う。
(逆に集中できない、つまりは今ひとつ面白くない本は、ただひたすら目で文字列を追うだけ。脳までスムーズに届かない。つらいのでやめたくなるが、性格上、とりあえずは最後まで読むが、心や意識に何か残るかと聞かれると返答に窮する。下手したら知識にすらつながらないこともあり、そこまで行くと「私、体調でも悪いのかな」と疑うレベルになり、かくして「万全の健康状態になるまで積ん読すべきだったんだそうだそうに違いない」という自己正当化と逃避に至る)
目でも脳でも楽しめる本には、まれに出会うことがある。本当に、まれに。
『バージンパンケーキ』は、そのまれな一冊だった。
内容は、恋愛の話になると一気に「甘酸っぺえ~…」となり、主人公の女の子の謎めいた天然思考に打ちのめされ、ラストは「それでいいの?本当にいいの?」と主人公の親友の肩を掴んで再考を促したくなる。ごめんね、おばちゃん古い人間だから。
しかし、「バージンが開けても鳴らないドアベル」とか、主人公の母親がベジタリアンであるがゆえに主人公は肉食に飢えていたりとか、いろいろと突きつめていくと、高校1年生のこの女の子は「触媒」なのだなとすんなり納得できる。
(ここからどんどんネタバレ)
「バージンパンケーキ国分寺」の店主、まぶさんは元修道女である。
その彼女がある人と恋に落ち、相手から「2人でパンケーキ屋を営もう」と遠まわしにプロポーズをされたことが、そもそもの発端。
ちょっとしたミスでまぶさんは1人でパンケーキ屋を開くことになるが、「あの人と私とで一緒に切り盛りしているパンケーキ屋が、どこかにある」と信じている。
そこで改めて表紙の絵に立ち返ると、古風ないでたちのまぶさんは、主人公の女の子ではなく、どこかをぼうっと見つめている。私の肩ごしに、ずっと遠くまで。
(帯つきのままでお読みの方は、ぜひここで帯をちょっと外してみてほしい。主人公のみほちゃんとまぶさんで、それぞれ別の次元にいることがよりわかりやすくなるから。みほちゃんの赤いスニーカーを眺めていると、その感覚はもっとずっと鮮明になると思う)
ラストでまぶさんはついに、その店へ辿り着く。みほのおかげで。
このあたりの細かいことははっきりとしないが(ほとんどみほが駆け足の想像で片をつけてしまうから)、ともかくも、不思議ちゃんな主人公みほがいなければ、まぶさんは愛する人のもとへ行けなかった。
そのために、みほという子は、処女性を保ち、肉を断たれ、そこから生じる飢餓感ゆえの膨大なエネルギーを蓄える必要があったのではないか。
気がついたら魔女修行をしていた様なもの。陽炎子さんは自ら望んでそれを体得したが、みほは「素質がある」上に、一夏とはいえパワースポットにも相当する「バージンパンケーキ国分寺」で過ごしたため、自然と育ってしまったのだろう。
ただし、役割を終えたところで能力が失せたわけでもないようだ。
「バージンパンケーキ国分寺」がなくなった後も、みほの感受性に変化はない。
そこでこの「バージンパンケーキ国分寺」という店名(書名ではなく)に思い至った。
なんで国分寺なの?
というより、
「バージンパンケーキ春日部」とか、あってもいいよね?
「バージンパンケーキ北千住」「バージンパンケーキ上野」「バージンパンケーキ成田空港」「バージンパンケーキロンドン」も。
パラレルワールド設定なら、無数の「バージンパンケーキ」店があるはず。
それらの店はどれも、いつでも誰かを必要としている。
条件つきではあるけれども、何らかの条件がないとあっという間に全店消滅しかねないので、ある程度の難易度は必要。
でもその条件は結局のところ「幸せをあきらめない」という、ほんとうに簡単なことだったりする。簡単すぎて見落とすぐらいに。
みほは風変わりな子ではあるが特別な子かと言ったらどうしても疑問が残るし、陳腐ではあるものの誰だって特別な子になる時期は必ず巡ってくる。
そう考えると、ファンタジーのカーテンの影にきちんとある現実が見えてくる。
処女判定のベルも、私は要するに「祝福の鐘」だと捉えている。
ロストバージンの体験は様々だから軽率には言えないが、できれば「鐘が鳴ること」は幸福の象徴であってほしい。
幸せな人生を送るために、がんばっている人たちの話。
『バージンパンケーキ国分寺』は、そんな、とても普通の物語だった。
ところで「媒介になるために処女性が云々でエネルギーがどうこうで」と書いていて、何だか既視感があるなあと思ったら、山岸凉子だった。
これに収録されている「顔の石」。
私が持っているのは「牧神の午後」(朝日ソノラマ)所収のものだが、「牧神の午後」に「顔の石」が収録されている理由が何となく今、分かった気がする。
更に「二日月」も「牧神の午後」収録だった、はず。
どれも「持っているエネルギーの使い方、放出のあり方」といった点が共通している。
そのエネルギーと想像力、創造力が生きる上でどう絡むか、というテーマも。
『バージンパンケーキ国分寺』には、それに近い何かを感じる。
あと、作中でまぶさんがシスターだった頃に「勤務していたミッションスクールの学校サイトを外部に作成依頼していた」ことから恋の花が咲くわけだが、色々と考えると、もしかしたらみほちゃんがいる国分寺は20年ぐらい先の国分寺なのかもしれない。
シスター・マーブルが大学卒業後すぐにシスターになれる時代を経て30歳手前で、学校サイトがある(今どきバイトの子でもできる構造らしい)…と計算していくと、時間をも超えたことになる。
もしかしたら日付を間違えた分岐点すら何かの意思である可能性も(昨年はまりまくったゲーム「デトロイトビカムヒューマン」の名残り)。
重箱の隅をつつかせてもらうとすれば、経費の問題などから一般的にミッションスクールのサイトの外注は女子パウロ会を頼るケースが多い。
盛さんの会社が「パールなんとか」で「パールさん」と呼ばれているのは、もしやパウロから取っている?
と、いろいろと妄想できる余地がたくさんあり、読後も長く楽しめる。
これは「ホモかぐや男」もいけるね!
そう確信するには充分すぎた。
もはや罪の出どころが雪舟えまにあるのか池辺葵にあるのかヤマシタトモコにあるのかよくわからない。
「ホモかぐや男」改め『BL古典セレクション1 竹取物語 伊勢物語』、楽しみだなあ。すでにこれを書いているパソコンの隣にあるからなあ。便利な世の中だなあ。
とりあえずぱらぱらとページをめくってみたら、最後に「BL古典セレクション」の続刊情報が載っていた。
2は『古事記』(海猫沢めろん訳)、3はラフカディオ・ハーンの『怪談』(王谷晶訳)らしい。
『古事記』はともかく、『怪談』?
『怪談』でBL?
え?
まさか「耳なし芳一」で坊さんが芳一さんを脱がせて「安心せい、ここにも書いてやるからのう…」「も、文字通りの筆おろし…ですか…っ!」とか、そういう展開?
うん、まあ、原作に忠実といえばそうだけど、…んん?
そんなことしてるから耳なんていう分かりやすいところを忘れるんだよ!ちょっと読みたい!
まあ、『竹取物語』でどこまでやれるかを見てからでないと何とも。
『怪談』は来月発売…そうか…。…そうか。
イラストは天野喜孝がいいな…。
芳一さん(受け)にはギリギリの線で貞淑でいてほしいからもし万一そういうことになっても何とかうまく回避して、「バージンパンケーキ下関」の鐘をいついつまでも静まりかえらせていてください。
と思ったけど「バージンパンケーキ」店のドアベルには男性向け経験判定機能は搭載されていないのであった。そこだけ何とも残念な気がするような、そうでもないような。
『BL古典セレクション3 怪談』を発売日に買いたいなら積んじゃダメ。と言いたいところだが、『怪談』は別の方が書くので関係ない。
真面目に語るなら、こういう本はいつ読んでもいいものだ。舞台設定は主に夏だが、どちらかというとくもりの日を重視したい。
でも積まれても不平を言わない本であるとも思う。そういう意味でも、稀有な本。
「バージンパンケーキ国分寺」のパンケーキは恐らく傷んだりカビたりすることはない。安心して積んで、呼ばれた気がしたら読めばいい。作中でパンケーキもしょっちゅう2、3枚ぐらい積まれているしね。言葉あそびの意味で積ん読むき。
私は『怪談』発売直前に読んでしまった感があるので、何というか、魔法はあるのだなと再認識した。こうなったらもう、積み続ける魔法で対抗したくなる。できるようになってもしないと思うけど、習得だけは一応しておきたい。
積むべきものは着物か、マンガか―罪深き着物deピュアライフマンガの感想。
文庫を1冊読み終え、マンガを1冊読み終え、文庫とマンガを1冊ずつ読みはじめていたらアマゾンさんから「金田一少年37歳の事件簿3巻を送りましたよ~発売日たる明日に届くよ~」とのメールが入った。
ついでに昨日は初めてpixivのBOOTHを利用し、高河ゆんの同人誌「日の出さんで朝食を」を買った。同人誌を買うの、実に15年ぶりぐらい…?
これは2008年に高河ゆんが出したエッセイ同人誌の書籍版。
断固とした紙派の私だが、ここは我を忘れたというか、我を捨てたのよ。ガンダム00関係ならばやむなし。どころか、たやすいものよね。呼吸をするようなものよね。
そして当然のようにまだ読んでいない。スマホの中で積んでいる。
これが紙だったなら舐めるようにして百回ぐらい読んでいたに違いない。いやあ残念。
さて、昨日、積ん読の中から読み終えたマンガの話。
着物、和服好きさんなら読んで損はしないシリーズ。
舞台が神戸から京都にかけての西のあたりで、ほぼ毎回どこかしら実在する場所へ出かけるので、旅行好きさんも楽しく読めそうだ。
私はというと、着物が物語の軸になっていると聞いて読みはじめた。
確かこの1巻が出たころ、ちょうど食事マンガがブームになってしばらく経ち、やや飽和状態に片足を突っ込みはじめていた、そんな時期だったと思う。
私はもともと本でもマンガでも「一芸入魂もの」が好きなのだが(バレエものとか、演劇ものとか、もろもろ)、「着物マンガ」というのは、あるようであまりない。
森薫あたりがそういうのをやってくれたらすごいことになりそうだな…と今ふと思った。
現代よりも明治あたりのカフェーの女給のイメージで描いてくれたらのめりこむだろうなあ、などと想像していて、「待てよ、それどこかで読んだな」とシナプスがぴきぴき活動してくれた。
これだ。
「舞妓さんちのまかないさん」の作者さんですよ、と言えば通じやすいだろう。
残念ながら私は3巻ぐらいでアーリーリタイアしてしまったが(高いのよね、これ)、連載中、「森薫を模倣しようとして失敗している」との評が少なくなかった。
しかし、私はそうは感じなかった。単純に「雰囲気マンガ」という、うまく説明できないけれど「森薫的なもの」がジャンルとして確立しはじめたシーズンと重なっただけだと思う。
「ちろり」を森薫のパクリだ!なんて言っていたら、
これなんか一生読めないだろうなあ、もったいない。すごくわくわくするのに。
(画集みたいな作品集だから過ぎた願いだけど、続編を出してほしい)
(と思ったら「百貨店ワルツ」の2018年版カレンダーならあったのか。時よ戻れ)
毎回、話がずれまくるのはこのブログの仕様です。ご了承ください。
さて、「恋せよキモノ乙女」。
とにかく絵柄が可愛い。
主人公は20代なかばか、もう少し若いぐらいの女の子。職業はどこかの企業の受付。
休日はOLからキモノ乙女に変身。
1人でもおいしいものを食べに行ったり、面白い本を探しに行ったりする。
やがて気になる殿方と出会い、逢瀬を重ね…という、ストーリーとしてはベタ。
恋愛マンガの王道。
3巻では三角関係っぽい展開になっている。3巻だけに。
それでも飽きが来ないのは、やっぱり着物の力が大きいだろう。
舞台となるお店を忠実に再現しまくっても、恋愛がどれだけ凄惨に盛り上がっても、これが洋服だったら「先は読めるな」と1巻の3話あたりで閉じてしまいかねない。
「今の季節ならこの模様で、行き先があそこだからこの帯で、それに合う帯留めならこれで、なら帯揚げはこの色で」
と、実際に外出するまでの時間が長いのに、その部分がとても楽しい。
加えて、恋愛感情が募ってからは、
「これを着ていったら可愛いと思ってくれるかな」
と想いを馳せずにいられなくなるヒロインがとてつもなく可愛い。
洋服でも同じことを考えはするだろうけど、それが着物だから、やはり読む側も気合いが入る。
「大丈夫、絶対に可愛いから行ってこい」
と素直に背中を押したくなる。
ちなみに2巻では、恐らく永遠の現代的課題「デートに和服はアリかナシか」にスポットが当たった。
ここをちゃんとやってくれたのはマンガとして快挙だと思う。
もちろん「アリ」にしないとこの話は成り立たないと分かっているけれど、ちゃんと問題意識として差し出し、「相手を思いやらないと何を着ても可愛くない」と結論づけることで着物と恋愛の関係図も出来上がった感がある。
更に3巻では「着物で告白しておけばよかったかなあ」と泣き笑いをする場面がぐっと来る。
主人公が着物をまとうことの必然性が回を追うごとにどんどん増してくる。
このマンガの面白さは、実は絵柄や物語、着物の選び方ではなく、そこにあるといっても過言ではない。
主人公にとって着物がもはや血肉なのだということがはっきりと伝わってくる。
この主人公が「いまどき『なかよし』でもここまでじゃないのでは?」と思えるほど純粋でいられるのは、細胞のすみずみまで生き生きしているからなのだ。
一話読み終えるたびに「着物いいよねえ…着物、着たい…」と陶然としつつもじたばたする。
というのも、わたくしめ、5年ほど前に唐突に着物に手を染めたことがある。
それまでも着物に興味はあったのだが、なかなか実際にどうこうする機会がなかった。
成人式もワンピースを着て出席した。あの頃は観劇が趣味だったので、フォーマルなワンピースの方がお役立ちだと判断したのだ。実際、虫に食われるまでの数年間、数多の戦場(劇場)を共にした。
大学の卒業式は袴にした。本当はハイカラさん風に着こなしたかったのだが「TPOをわきまえろ」と一蹴されてしまった。
その後、友人の結婚式でも洋装が続き、気づいた時には未婚の友人がいなくなっていた。
もう行かず後家なら人生は好き放題にやるのだ!と決め、まずは無難に浴衣から始めた。
慣れた頃に着物(一重や袷)に挑み、一応、着付けはできるようになった。
(びっくりするほどお安い着物がこの世には存在するのだと、このころ初めて知った。というか、私の中の着物のイメージが勝手にお高すぎたのだと思う)
今はどうかと言うと、まったく着ていない。
何故かというと、猫をお迎えしたから。
「恋せよキモノ乙女」の猫さんはおりこうに主人公の着付けを見守っているけれど、うちのおてんば猫は帯締めを見ただけで大歓喜。無理。ついでに編みものもほぼ不可能になった。可愛いけれどバカ猫め…でもかわいい。
さておき、名残として、冬はルームウェアの上にパーカー、ズボンに重ねて袴風の巻きブランケット、その更に上に羽織、というスタイルがデフォ。夏は甚平。レディースも着るが、だらっとメンズで着流すこともある。
最近あたたかくなってきたから、そろそろ作務衣の出番かな、と考えている。実は買った途端に冬になってしまったので、まだ袖を通していないのだ。
そして羽織でも甚平でも、和のものを着ると、「着物、着たいなあ」「あの半幅帯、好きんなんだよなあ」となり、このマンガに追い打ちをかけられる。
おてんば猫も少しは大人になった。と信じ、また着物に再挑戦しようかとも考えている。
5年前に和服にはまってから洋服をほとんど買わずにきたので、Tシャツにパーカーにサルエルぐらいの服装でないとピンとこないのが実情であったりもする。
私はそもそも環境的に和服を着ることができなくなった情熱を「恋せよキモノ乙女」に向けたようなものだが、その逆ルートもあるだろう。
このマンガを読んで着物に触れる人が増えたら、と作者と監修担当者はきっと願っている。
3巻でも出てくるデニムの着物なら安価だし、家洗いできるし、何しろ馴染み深いし、柄がないぶん練習用にちょうどいい。
今ならオフシーズンだから浴衣はもっと安く手に入る。うまくやれば着物風に着ることもできる。たとえば半衿をつけるだけでも、充分それっぽくなる。
「着物って敷居が高い」と思っているそこのあなた。
まずはこのマンガからどうぞ。640円ですよ。
ついでに、3巻で私がいちばん惹かれたのは、撫子の着物。
半衿も素敵だし、珍しく帽子をかぶったりバッグが今はやりの星座モチーフだったり、ちょっと垢抜けたな、という印象。
でもやっぱりこの水玉と波千鳥の半衿がいいなあ…。私の市松格子とフラミンゴの半衿…出番をあげたいなあ…。
新刊情報を見落として上に1ヶ月ほど積んでいたわけだが、積むのは着物だけで充分よね、と我ながら思う。着物もマンガも積むようでは何のための人生か分からなくなる。積むべきではなかったね…。積んでいたのを手に取って偶然にも裏表紙が目に入り、「同じ柄で姉妹で和装と洋装なんて粋だわあ」とうっとりした(このお姉ちゃんじゃ補正必須だよな)。というかこのお姉ちゃんの細ベルトを半幅っぽい帯にうまく巻きつけて帯締めがわりにして、お姉ちゃんが山ほど持ってそうなスカーフの中から透け感のあるアイボリー系のものを畳んで帯揚げ風に挟み込む…とか…どうだろ…と想像が止まらなくなるからこれを積む時は裏表に気をつけねばならない。ついでに帯(本の方の帯)を見て改めて思うんだけど銀座結びまでマスターしてるってすごいな。ああ着物、着たい着たい。着たくなるから読むべきか積むべきか、もうどうしたらいいのか誰か教えて。
50では足りない―橋本治氏の「バカ」をもっと聞きたくなる本の感想。
前回の記事で「平成が終わる前に読んでおきたい本」について書いた。
積ん読罪人としてあるまじきことではあるが、その中で、事前に予約し、届いたその日の内に読みはじめ、既に読み終えてしまった本がある。
久しぶりに、実に久しぶりに、一秒たりと積まれずに読まれた本。いとさんたら積まずに読んだ。私、そんなことができたんだな。
どんな本かというと、これ。
正式なタイトルは『思いつきで世界は進む―「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』。長いなあ。
上のアマゾンリンクでは帯が追悼用のものになっているが、私のところに届いた本はまるで橋本治の死などなかったかのように、
「バカにバカ」って、言っても通じないこの国で
とだけ力強く謳っている。
何故、この本を「平成が終わる前に読もう」と思ったのか。
著者のご逝去のタイミング、としか答えようがない。
あとは直感。
橋本治の作品が特段に好きというわけではない。
それほど読んでもいない。
ただ、この人がとても面白い人だという印象はずっと持っていた。
『桃尻語訳 枕草子』を読んで「うわお」となり、著者近影を拝見して「ゲイなのかな」と妄想し(色々な意味で失礼すぎますよね本当にごめんなさい)、『窯変 源氏物語』では「光君と頭中将はそういう仲になるよね?ね?」と期待し、…中学生でそういうお年頃だったんです。本当に、本当に、ありがとうございました。
(『窯変 源氏物語』への明後日すぎる熱は高河ゆんのマンガ「源氏」の余罪でもあると主張したいが、いかんせん源氏ちがいも良いところだわな)
編みものができるようになったのはここ10年ぐらいのことだが、氏の編みものの本も読んでみたいなあと思う。
恐らく普通の編みものの本ではなかろう。絶対に変な本に違いない。すごく面白そうだ。
私にとって橋本治は、それほど好きというわけではない、そんなに読んでもいない、だけれど我が読書歴において確かに抜きん出ている存在だ。
中学生の頃に『窯変 源氏物語』を読むことは、ちょっとした冒険だった。
経済的にも、読解力でも、いっしょうけんめい背のびをして文字を追っていた本。
はじめて触れた源氏物語でもあった。
そういえば何故か大和和紀の「あさきゆめみし」は大学生になるまで読んでいなかった。
そして、その後、どのバージョンの源氏物語に挑んでも、須磨に飛ばされるあたりで私の興味もよそに飛んでしまう。
『窯変 源氏物語』を、そこまでしか読んでいないからだろう。
私の源氏物語的亥の子餅は『窯変』で頂きたいの。他じゃだめな身体になってしまったの。
角田光代版『源氏物語』ももう気になって気になってしょうがないけど、やっぱり『窯変』がいいの。理屈じゃないの。
中学生時代に刻まれた思い込みは生涯、消えることはない。
だからこそ中二病は不治の病とされているのだ。
(ちなみに『窯変 源氏物語』は4巻まで読んで実家に置いてある。が、改めて最初から読み直したい。もちろん文庫ではなく大判で。今のところ仮想積ん読状態。いつ実体化するか、この状況ではまこと図り知れぬよ)
そういう経緯があったからか、橋本治の訃報は、実はあまりショックではなかった。
「ああ、ご無沙汰していました。そうか…。ありがとうございました」
心境としては、こんなところだった。
そしてこの『思いつきで世界は進む』が出ると知り、一も二もなく予約ボタンを押したのだった。
約20年ぶりに読む橋本治の本。
読みはじめてまず最初に思ったことが「電車の中では読めない」、これだった。
面白すぎて、つい吹き出してしまうのだ。
「危険ドラッグじゃなくてバカドラッグでいいだろ」で笑い「子どもは邪悪な気配のする画数の多い漢字が好きだから教えてやれ(道徳の授業で)」でも笑った。
こうやって書きながらざっとページを探ってみても、まだまだ笑える箇所は山ほどある。
ただし、「それは極論すぎやしないか」「これは短絡的すぎではないか」と思う面も、同じくらいちゃんとあった。
極論に関しては、その大半が「~じゃないかと思うんですけどね」で締められているので、極論のかたちをした問題提起である可能性のほうが高い。
読みだしてからしばらく「意外だな」と感じたのは、「~だと思う」が多用されていることだった。
橋本治なら「~だ」「~であるべき」と断言しそうなものだと思うんですけどね。
と、私自身が文章を書くときに「~だけど」「~だが」で終わらせることに抵抗があるから、余計に目についたのだろう。話し言葉なら問題ないんだけど。あ、やっぱり何かダメだ、苦手だ。
予想よりも文章表現はやわらかいんだな、と思った。そのぶん毒舌が生き生きとしていて、とても良い。死んでなお生き生きとしてらっしゃるなんて、一読者として嬉しいことこの上ない。
この本のあざやかな面白さの根底には、言うまでもなく氏の知性が遥か彼方まで連綿と広がっている。
イメージとしては「綺麗な花畑」。
だが間違っても綺麗事ではないし、花畑といってもアッパラパーなアレであるはずがない。
今どき珍しいほどの純粋な「綺麗な花畑」、さすが橋本治である。
橋本治にとって、無知とは「無恥」だ。「無恥」とは、「ダサいこと」だ。
そこで思い出したのが山岸凉子。
PKO問題の折り、「日本の男性は『みっともない』という評価をびっくりするほど恐れて拒絶する。だからPKO賛成派はこぞって『日本だけが派兵しないなんてみっともない』と大きな声で主張するのだ」と巻末マンガで熱く語ってらした。
両者は使い方こそ違えど、言っていることの本質は同じだろう。
「無知はバカの罪だから他者を傷つけもするし、無恥は自分を台なしにしてしまう。どちらもとてもダサいことだから、やめときなさい。みっともない、なんていうからっぽの言葉に惑わされてはいけない。それこそ本当にみっともない、恥ずべきことなのだから」
無知と無恥が極まって、外交すらも子どもを諭すようにやっていかなければならないご時世。
なのに「もう子どもじゃないんだから」と、知恵の共有をすっ飛ばしてしまう場面の何と多いことか。
いやあ、子どもですよ。だってバカなんだもの。そして「バカは生理的に受け付けない人」はまだちゃんといるんだから、しょうがないでしょ。なんで健全な人が我慢しなきゃいけないのさ。
バカにバカって言える人はちゃんと言うべきだ。
そういう役割の人は、たとえ通じなくても、言い続けるべきだ。
おまえバカだよ、恥ずかしいよ、ダサいよって、百万回でも放つべきだ。
しかし、その役割を担える人がどんどん減っている。
いみじくも「平成最後の年になって人がたくさん死んでいる、それはその人が役割を終えたからだろう」といった文章が、この本の中にある。
ご自分のことを語っている意識は、あったのだろうか。
やはり死は思いがけないものだったのだろうか。
「あんなこと書いちゃって死んでいく俺、なんかバカだなあ、ちょっとダサいなあ」と笑いながら逝ったのだろうか。
だとしたら、きっと幸せな人生だったと思いますけどね。決して皮肉ではなく。
久しぶりだ、と思うことの多い一冊だったが、これまた久しぶりに読んでいて付箋を貼った。
目から鱗としたというか、しばらく考えるにつれて「ああ、なるほど」と染みたのだ。
忘れたくないと思ったから、頼りないほど細い、半透明の青い付箋を貼りつけた。
93ページ。
「現実はいつでもいい加減で、だからこそ「非現実的な発言」である批評が力を持つ。「批評は現実と関わらなきゃいけないんじゃないか?」と思った瞬間、批評は力を失うし、失った。批評は批評で、現実とは別次元になることによって現実と絡み合う。非力だからこそ力を持つというのが、批評の力でしょう。だから私の言うことは、現実と関係がない」
橋本治さん、ありがとうございました。
平成が終わる前に読んでおくといい。私はすごくベストな時期に読めて幸福だったと思う。ただ、内容は普遍的であるものの入り口は時事ネタだし、既にやや古くなってしまっている話題もあるので、数年後ほど積んで熟成させてから「あの頃こんな時代だったよなあ」としみじみしながら読んでも面白さが損なわれることは決してないだろう。あえて政権交代とかトランプさん引退を見届けた後で読むのも乙なものだと思いますけどね。
「平成」が終わる前に読みたい積ん読本
平成最後の夏があった。
平成最後の秋があった。
よほどの異常気象でも起こらない限り、今まさに平成最後の冬だろう。
平成最後のクリスマス、平成最後の大晦日、平成最後の元旦、平成最後のセンター試験、平成最後のバレンタイン、などなど。
実際にそう呼ばれていたかは知らないが、とりあえず、大抵のことは「平成最後」だった。客観的な事実でもあった。
今日だって「平成最後の2月19日」だ。
そう考えると「何かの枠の中で、『今日が最後の2月19日』とはっきり言えるって、何かすごいな」と漠然と思った。
どうせなら「平成最後の閏年」と言える日があってもよかった気がするのだけれど、最近の閏年といえば2016年。
そのころはまだ天皇陛下の生前退位に関する話は出ていなかったと記憶している。
2016年に「今年は平成最後の閏年なんだよね」とうっかりこぼそうものなら非国民あつかいされたのではなかろうか。2年ちょっと後にはエスパーとして崇められることにもなろうが、「でもまあ、なんていうか、空気は読みなよ」とのそしりはどうしても免れまいな。
私はといえば、「平成最後に買う本は何だろうなあ」「何にしようかなあ」と、流れに任せるか自己決断するかの狭間にいる。
「積ん読リスト」がある一方で「読みたい=買いたい本リスト」も存在するから、迷いはいっそう深くなる。
が、「現時点での積ん読の中から、平成が終わる前に読みたい本」は、数冊ほど決まっている。
「平成が終わる前に読もう」と思って買って積んでいる本も、ある。
もはや平成最後とか関係ない気がしなくもないが、一応、心がまえというか、けじめというか、記念というか、ノリというか。
何故「平成最後に読む本」ではなく「平成最後に積む本」なんだろう、と首をかしげるふりをするそのこころは「平成最後って便利だな」である。
毎度ながらごめんなさい。
しかしながら、真面目な話をすると、「平成が終わる」「平成が終わっていく」この日々をカウントできる状態は、なんだかとても不思議だ。
私は昭和が終わった日のことを、そこそこ鮮明におぼえている。
1989年、昭和64年、1月7日。私は小学6年生だった。
朝、起きると「天皇が亡くなった」と親から知らされ、その後に小学校の連絡網で臨時休校の知らせが入った。
「天皇が病気で容態がよくない」という状況は、さすがに小6ともなればニュースなどを通して頭に入ってはいた。
ただ、「天皇が亡くなる」ことと「昭和が終わる」ことは、うまく結びつけられていなかった気がする。
その日になって「元号が変わります」とテレビでくりかえし聞き、「あ、そうか」とようやく納得したほどだ。
しかも、ここから私の記憶は錯綜していて、天皇崩御から「平成」の元号発表まで2日ぐらいあった、とずっと覚えちがいをしていた。
その日の午後2時に「平成」の文字を見ていたと知ったのは、本当につい最近のことである。
先月だったか、年末だったか、そのあたりにコラムか何かを読んでいて驚いたから、実に29年間も脳みそが部分的にやられていたことになる。
学校の教室で「新しい元号、何になるんだろうね」と友達と話していた思い出があるのだが、もしかしたら臨時休校の方も虚構で、実際は学校に行ったのかもしれない。
短縮授業になってお昼に帰宅し、「平成」の発表を見た。これなら辻褄が合う。
いや、でも、「平成」の発表までテレビのチャンネルをあちこちに変えては「テレビ東京すごい」と感心したおぼえもあるから、どうなんだろう。
記憶力にはちょっとした自信があったのだが、今回の件でもっと自分を疑わなければと姿勢を新たにした。平成最後の自戒…にならないよう我が事ながら祈る。
昭和から平成になって、何が変わったか。
これはもういろんな人がいろんな立場や角度から語っていることだろう。
私ははからずも「昭和最後の小学6年生」になり、「平成最初の中学1年生」になったわけだが、当時はそんな意識もなかった。
(よく考えると昭和63年に中学に入学した人も「平成最初の中学1年生」に相当するのか。ややこしいな)
式典などでその表現は使われていたのだろうけれども、特に印象に残るほどではなかった。
ただ、元号ネタは小学生の間で大変な人気者となった。
かくいう私も友達と「私たち、いつか『昭和ババア』とか呼ばれるようになるんだろうねえ」といった会話を、飽きずにくりかえしたものだ。ええ、アキちゃん、予想よりもずっとその日は早くやってくるよ…覚悟するがいいよ…。
「平成は戦争のない時代に」、これはしょっちゅう耳にしたスローガンだった。
これに関しては、ちょっと背のび癖のある子どもだった私は、ぼんやりながらもいろいろと考えをめぐらせた。
昭和天皇崩御をもって昭和の歴史の後片付けも終わらせてしまうのだろうか、とか、平成と昭和を完全に切り離すことは可能なのだろうか、とか。
昭和を振り返ると、やはり戦争の影が色濃いものだから、平成をかえりみるときにそういうことがないように、という願いであることは分かった。
けれど、今、平成の約30年を見渡すと、必ずしも平らかだったとは、やはり言えない。
私自身の体験と照らし合わせると、何よりもまず、阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件が「平成」の象徴として浮かび上がってくる。
何故、これが私の体験なのかというと、私は体験していないからだ。
この時期、私は高校2年生。イギリスに留学していた。
どちらの報も、イングランド中部のホストファミリーの家で、テレビで見聞きした。
阪神淡路大震災が平成7年、1995年の1月。
オウム真理教の地下鉄サリン事件は、そのわずか2ヶ月後の3月。
「日本って思ったより物騒な国なのね」とホストマザーが驚いていた。
私は「地震は天災だし、サリン事件は異常すぎ、どちらも例外だと思ってほしい」と伝えようと持てる限りの英語力を尽くしたが、通じたかどうか。
イギリスに留学した当初、多くの人から、「日本って地震があるんだよね。どんな感じなの?」としょっちゅう聞かれていた。
興味の対象がそこなのか、と、とにかく意外だった。
サリン事件がBBCで報道された時、日本のワイドショーのVTRが紹介されたこともあった。
ホストファミリーに「日本語の部分を訳して」と頼まれ、「戦後最悪の事件だと言っています」と答えたところ、「戦後って、どの戦争?」と返ってきて一瞬ことばが出なかった。
私にとって当たり前のことが、この国ではまったく当たり前ではない。
その現実は、出国前の私の予想や身がまえを遥かに超えていた。
そしてブラウン管に映る倒壊した家屋や地下鉄の外でうずくまっている人々が、ひどく遠く思えた。
それから数ヶ月後の6月に帰国。
日本は何も変わっていないようで、何もかもが変わっているように見えた。
普段からの防災意識や、駅にゴミ箱がない風景。
友人との他愛ないおしゃべりの中にも、うっすらと違和感が漂っていた。
「1年イギリス留学しても、あんたはびっくりするほど変わらないねえ」と友人に揶揄されたものだが、私からすれば、「あなたたちは変わった、ほんとうに変わった」と言ってみたくて仕方がなかった。
けれど、何がどう、とは明確にはつかみきれていなかったので、「1年ぐらいじゃ人間なんて変わらないよ」と笑って済ませていた。
あのころを境に、私の中の日本の、何がどう変わったのか。
未だにはっきりとはわからない。
ただ、私はあの大きなふたつの出来事に、日本人として参加できなかった。
その感覚だけが拭い去れないままずっと残っている。
批判や非難を覚悟で言ってしまうと、東日本大震災に関しても、私は周囲との温度差にとても戸惑った。
今でもその、ずれのようなものは、ある。
「平成」を、私の目線で見つめると、たぶん、こう集約できると思う。
焦点の共有がすごく難しくなったのに、それができなければ仲間に入れてもらえなくなった時代だった、と。
天皇が生前退位を希望し、決定した背景には様々な事情があるだろう。
想像するしかないのだが(そして恐らくこれも不敬というか、単純に失礼なことではあるのだが)、天皇が生きたまま天皇をやめて、平成を終わらせよう、終わらせたい、と願う、その理由は、それほど困難でも複雑でもないのではないか。
簡単なことほどそうそう出来るお立場ではない(はずだった)から、周囲がそこに何かしら崇高で美しい装飾を付け加えようとしているだけなのではないか。
似た例として、前ローマ法王ベネディクト16世の生前退位がある。
実はというか私はカトリック教徒なのだが(成人してから受洗、現在まったく教会には通っていない)、同時に独学で歴史研究も続けてきたので、「これは歴史的瞬間に立ち合ったなあ」と好奇心でいっぱいになった。
ベネディクト16世の敬虔さや霊的謙虚さに打たれるよりも、「またコンクラーベが見られる!」とか「次はついに黒人の方が有力候補らしいですよね」と、俗っぽさ全開で事の成り行きを見守っていた。
生前退位の理由は、法王ご自身の公式見解もあったし、マスコミもこぞって色々と言っていた気がするが、「法王としての公務に限られた時間を費やすよりも、ひとりの信徒として祈ることに人生を捧げたい」というシンプルな欲が核心に近いように思う。
「この苦悩のもと常に神と対話し、ついに赦しの光明を得て…」といった表現は、カトリックとバチカンの文化に沿った言動だろう。
世の中の多くのことは、文化のセンスがあるかないかでかなり左右される。
文化に染まるセンス。文化を読みとるセンス。文化に合わせるセンス。文化の違いを許容するセンス。
「今はそういう時代なのだ」は「今やそういう文化なのだ」と似ている。
似ているだけで同じではないから、注意してものごとを見なければならない。
長々と書いたが(私は短文を書くのがアホのように下手くそだ)、私にとっての「平成」は、恐らく今年の5月以降も続く。延々と。
それはそれとして、気になるのは「平成以降」だ。
イギリス留学中、ホストファミリーと「ポンド札の絵ってエリザベス女王ですよね。これがいつかチャールズ皇太子というか、キング・チャールズの肖像になるんですね~できればずっと女王さまの方がいいかな、なんて」と笑い話のつもりで言ってみたら、「どんな顔だってチャールズよりはましだからね」と真剣な表情で答えられたことがある。
大変失礼ながら、「あの皇太子が天皇に…なるのか…」とか「雅子妃が外交官出身だから皇室外交が活発になる、と婚約時代は話題になったのに、いざ成婚したら『分を超えた野心はNG』になったよなあ…」「それで雅子妃がああなってこうなって、皇太子が『主にマスコミが雅子妃を否定した』みたいなことを会見で堂々と言い出して朝日新聞に最高のネタを提供したしなあ…」とか、いろいろ危うく思うところがある、というか、あって当たり前だろう。
(これでも話題が話題だから頑張ってオブラートに包みまくっているつもり)
平成天皇が、一時的に自分の父親が「神」になったり、その後で「人間」「人間天皇」「象徴天皇」に戻ったり、そうした大きな混乱の中をかいくぐって今に至るお方なのだと考えると、「やめたい」と仰るなら静かに「お疲れ様でした」と頭を下げたい。
平成最後の天皇誕生日のスピーチでも「象徴天皇」の単語がくりかえし使われていた。
平成天皇にとっての「平成」は「象徴天皇であることに尽くした人生」でもあるだろうし、それを受け継いでいってほしい感情もあおりだろう。
私が私の「平成」に何かを付与するとしたら、「そういう天皇を象徴として掲げる国で、そういう象徴天皇が自ら退いた時代」だ。少なくとも、そうなる予定だ。
それが揺らがない時代が、平成だった。
だからこそ、平成以降が気になる。
新しい時代が必ずしも良い時代とは限らないから、でも良い時代かどうかなんてその時代が終わらないと分からなかったりもするから、せめて次の次の元号発表まで生きて、また振り返りたい。
そのとき、私の中の「平成」が終わっていれば、いい。
私が終わりゆく「平成」を思うとき、よすがとするポイントがいくつかある。
それを念頭に置いた上で購入し、「平成が終わるまでに読む」つもりで積んでいる本は、このあたり。
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
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実際は、下2冊は再読に当たる。再読しようと思って持っていて、積んでいるという、その類。
上2冊は「平成が終わる前に」という動機としては分かりやすいと思う。
(実は結構好きなジャンルの1つ、皇室もの)
カズオ・イシグロの『日の名残り』は、知性と品格と、時代の流れ、「あるじ」という存在。
須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』は、異文化と個人主義、「父」という存在。
あと、「平成が終わる前に」と思って買って積む暇もなく読み終えた本は、これ。
よくばって更に足すとしたら、以下すべて再読で、
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GLOBAL GARDEN コミックセット (花とゆめCOMICS) [マーケットプレイスセット]
- 作者: 日渡早紀
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チョイスの根拠をここで語るつもりはないが、私の中では一貫している。
まあ、これらすべてを「平成が終わる前に」読みきれそうにないので、最低限でも最初の4冊と、「アドルフに告ぐ」かなあ。
あと遠藤周作の狐狸庵先生もので、横井庄一さんについて書いた短いエッセイがあった。天皇制ではなく、昭和天皇そのものについて鋭く言及しているので読み返したいが、どの本だったか…。
その発言から連想していくと、これもアリかもしれない。
- 作者: トマスハリス,Thomas Harris,高見浩
- 出版社/メーカー: 新潮社
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「あのとき、警察はどこにいたので?」という台詞が重要。
でも飛びすぎか。新元号になってから再読するのでも遅くはない。
(それにしても「GLOBAL GARDEN」、文庫になってたのか…買いたいな。これ、実家に置いたままなんだよな…『ハンニバル』も…『ハンニバル』どころかレクター博士もの…まさか平成最後の積ん読が再読トマス・ハリス大人買いなんてことはない…よね。アンソニー・ホプキンス様を拝みたいからどちらかというとDVDだな)
あまり積まない内に読んだマンガ5冊の感想―おひとり様の昭和腐女子がプラチナ平安貴族とバレエを踊る
満を持して、感想。
積んだ期間は、最長で1週間ぐらい。最短で帰宅して即座に。
だから積ん読と呼べるかちょっと怪しい線。
初回の感想としてはあまり華々しくない。惜しい。
注意事項。
このブログではネタバレに躊躇がありません。
自己責任でお読みください。
こういうのを待ってた。最後の神候補。
ノーベル文学賞と物理学賞を最年少でW受賞した大学教授。どう見ても頭がウニ。痛そう。
実際、別の意味で痛々しい。この料理法は「デスノート」の魅上のセルフカバーだろう。懐かしい。本当に、本当に待ちわびてた!
コスモポリマンが小物に思えるレベル。もうこの人、神じゃないの?私はこの人に清き一票を投じる。彼をこそ神に!
前半の自殺論議は、この作品ではあまり大きな意味を持たないだろう。何しろ大場つぐみだから。
しかし、神候補のうち複数が自殺未遂経験があったり、自殺願望があったり、死が身近であったりすることは、物語として何かしらの伏線になっているはず。
どう考えても神になると退屈になる事情が明かされた今、それを覆す何かとその伏線がリンクしているとしたら、ミライくんが神になりたがる展開も見込める。
いずれにせよ、私の教授とミライくんが争わずに進むことはまずない。と思いたい。
いま最高にわくわくしているので、私の教授を拝むためだけにでも本誌を買って追いかけたいぐらいだ。
それにしても「あれ?前の巻、どんなだったっけ?」と惑っていてもぐいぐい読ませる力はさすがの小畑・大場コンビだなあと改めて放心。
腐女子になって四半世紀経つとこうなる?底?懐古編 (ZERO-SUMコミックス)
- 作者: 御手洗直子
- 出版社/メーカー: 一迅社
- 発売日: 2019/01/31
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本編よりも巻末の高河ゆんインタビューマンガ目当てに購入。
でも本編も充分に面白かった。というよりも、懐かしかった…懐古編…そうか、懐古編だもんな…そりゃ懐かしいはずだよ…。
私自身は同人誌を作成した経験はないが、通販で購入はしていた。
定額小為替とかもうね。郵便局の人にはどう思われていたのだろう。「ていがくこがわせで500えん」と言いに来る小学生。お察しだったのだろうか。
そして高河ゆんの語る凄まじい歴史。商業デビューする前の話…だよね…?(スタッフを引き連れてハワイに行った話は「アーシアン」の巻末に載っているが、あれが最初じゃなかったのか)
すると尾崎南やCLAMPも大体こんな感じだったのかな。尾崎南なら絶対にやりそうな1人イベント。行ってみたかった。
こういう好きなことにひたすら邁進する人は、たぶん「不可能」を感じる回路を持ち合わせていないのだろう。
トライアンドエラーが楽しくてしょうがない、ということなのだろうなあ。
せめて「名前を呼ばれて振り向く時は笑顔」を見習おう。それだけでも私だって最高のオタクで最高のリア充になれるはず(自分比で)。
これまで「腹に一物も二物もあるな」としか読みとれずにいたミサキくんが、とても格好わるくて格好いい。新キャラ、響ちゃんとの関わり方がとても面白い。
響ちゃんの中ではちきれそうになっている豊かさ、美しさ、あこがれ、夢。その表現がマンガとしてちょっと他に類を見ないくらい上質。
オーロラ姫とデジレ王子の名付け役が同じ妖精だとは知らなかった。実はバレエ鑑賞も好きなのに「眠りの森」はどうにも苦手で、一度だけ観た後は避けてきたのだけれど、そういうことだったのかと納得したが最後、今すぐにでも劇場に駆けつけたい!
潤平は今回、圧倒的に不利かなあ。恋や運命を踊りに取り入れつつある今、いい線まで行ってほしいけど、やっぱりミサキくんと響ちゃんのペアでこの舞台を観たい。
そして潤平の「ロミ・ジュリ」…いいねえ。そちらこそを是非!
しかしやっぱり潤平のミューズってあくまで都ちゃん(だっけ?)なんだなあと再確認し、「なるほど、運命…」とため息が出てしまう。夏姫ちゃんを横目に。
いつの間にか2巻が出ていた。次は頭中将、通称、中ちゃん。
残念ながら1巻よりパワーダウンの感は否めない。それだけ1巻のインパクトは強烈だった。
源氏物語は途中までしか読んでいないけど(しかも橋本治バージョンで)、私も光君より頭中将派。
このマンガでもどちらかというと中ちゃんが好みだし、1巻で最初から頭中将にしておけば…「いいね!頭中将(中ちゃん)」…うん、だめだな。
本格BL展開にしたとしても難しいな。
というか絵柄はこのままで平安時代でそういうのをいつかやってほしい。橋本治『窯変 源氏物語』では結構そういう雰囲気あった気が…思春期の妄想だったのかしら。
それにしても沙織さんが光くんにほんのり恋してたって、初耳。
3巻に続くならそういうことになっていくのか。それはそれで楽しみ。
(ただし3巻でやめておいた方がいい予感がひしひしと。やっぱり1巻で完結したと思いこんでいたし、私の如き読者は多そうだから引き際はどうか美しくお願いしたい)
ふっと以前のキャラクターが再登場するのが、このシリーズの面白いところ。サボテン少女しかり、作家さんしかり。そういえばマンガ家さんはお元気かなあ。彼氏と同棲したりしてるのかなあ。
しょっぱなのあの子があの子か!と分かった瞬間の、再会に似た感覚も嬉しかった。
全体を通して「無理はしすぎないで好きな人とゴキゲンにしてればいーよ!」「憎いと思うより手放せる方がいい」の言葉が心に残った。
こういう台詞がしっくり来る物語を作れる谷川史子、すごいなあ。
最後の一話がまるで最終回のようだったからひやりとしたけれど、まだまだ続くようで何より。
来月の「はじめてのひと」の新刊も楽しみだ。
「プラチナエンド」10
まったくもって一秒たりとも積むべきでない本。いっそ本屋で買ってレジ前で読むべし。
「腐女子になって四半世紀経つと~」
積めば積むほど価値を忘れやすいのでお早めにどうぞ。在庫も少なめの様子だからまずはお買い求めを。巻末だけ読んで本編未読で積んでおく手もあり(語り尽くされた昭和同人あるあるだから)。
「ダンス・ダンス・ダンスール」12
出版ペースが早めだから多少は積んでおいてもいい。案外、次の巻が出る直前まで積んでおいて発売日前日あたりにおもむろに崩し読んだ方があまりの待ちきれなさにもだもだせずにすみそう。
「いいね! 光源氏くん」2
1巻を発掘してから1巻を再読せずに読むのがベター。それまでは積んでおくのも、またベター。潔く1巻切りというのも、勇敢なるベター…かもしれない。
「おひとり様物語」8
今夜の夕飯がおひとりの方は積んでる場合じゃない。おひとりは毎日毎食だという方はお好みのタイミングで。谷川史子的にはやわらかい光のさす春の昼さがりが崩しどき。でも寒い冬の夜におこたで葛湯と一緒に…も悪くない。葛湯で崩すのだ。
購入状況と積ん読の育成
2019年2月に購入した本などをリストにしてみた。
もちろん、途中経過である。
まだ2月は10日ほど続くのだから。
(それにしてもそろそろ「金田一37歳」3巻か…楽しみだなあ)
なお、わたくしめ、最寄りのコンビニまで徒歩40分という地域に住まっている。ちっともコンビニエントじゃない。
要するに田舎ぐらし(一応、首都圏なのに)。
よって、購入する本の9割はネットづたい、わけてもアマゾン頼りという状況にある。
まさしくアマゾンさまさまである。
予約購入が多いのも、ネットでの新刊チェックが日常化しているから。
それでも情報を取りこぼすことは少なくない。
まったく、どれだけたくさんの本やマンガが日ごと世にあふれ出ているのかと、時々うんざりしてしまう。
その倦怠感が不買につながらないのは、もはや性としか言いようがない。そういうことにしておきたい。
なお、本は紙に尽きる。
頑なな人間だと言われようと何だろうと、ここはどうしても譲れない。
萩尾望都の「ポーの一族」の新作掲載誌がどうしても入手不可能だった折り、断腸の思いで電子書籍を選ばざるを得なかったが、改めて紙の良さに惚れ直す結果となった。
至高かどうかはともかく、私は紙の本が好き。
これからもずっと紙の本とのお付き合いを続けるつもりでいる。
話を購入リストらしきものに戻す。
短めなのでちょっとコピペ。
★購入した本、マンガ、その他
ジョージ朝倉「ダンス・ダンス・ダンスール」12(ネット予約購入)
橋本治『思いつきで世界は進む:「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』(ネット予約購入)
芦辺拓『奇譚を売る店』(書店購入)
大西寿男『校正のこころ』(ネット購入)
御手洗直子「腐女子になって四半世紀経つとこうなる~底~懐古編」(書店購入)
(何故かコピペできなかったため一生懸命に手打ち)
いちばん早くて2月1日に購入。
で、この中で既に読んだもの、つまり「もう積ん読じゃないもの」に打ち消し線を引くと、
ジョージ朝倉「ダンス・ダンス・ダンスール」12(ネット予約購入)
橋本治『思いつきで世界は進む:「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』(ネット予約購入)
芦辺拓『奇譚を売る店』(書店購入)
大西寿男『校正のこころ』(ネット購入)
御手洗直子「腐女子になって四半世紀経つとこうなる~底~懐古編」(書店購入)
賢明なる読者諸氏はお気づきであろう。
活字の本は『』で、マンガは「」で、カッコを使い分けてある。
この圧倒的マンガの愛され率!
『校正のこころ』、読もうよ…。
いま、自分にとって最大に重要な本でしょ…。
でもまあ、「ついにマンガも積むようになった」と絶望していたのだが、思ったほど積みっぱなしでもない。
昨年末、すごく楽しみにしてた「文豪ストレイドッグス」とか「乙嫁語り」とかあれとかこれとか積んだままだけど、うん、それはあの時期に発売された待望のゲーム「ドラゴンクエストビルダーズ2」が邪魔したからで…。
えーと…。
私は本の収納を二段階に分けている。
まず、隣室に大きな本棚がある。そこに既読本が約1500冊。
おいそれと引っ越せない理由の一つ、と、それはさておき、
そこもほぼ収納の限界を迎えているがゆえに、年に2、3回、整理するまでは積ん読を足すことはない。
本を買ってきたら、まず、隣室の引き戸のわきに、積む。
文字どおりの積ん読。
古いものほど下にあり、取り出すのにも難儀する。
実際に何度か雪崩を経験している。
いきおい、上にあるものから読むことになる、というか、手に取りやすくなる…というわけで…。
「鉄は熱い内に打て」のことばに倣い、「本は上にある内に読め」となる。
何かもう、ごめんなさい。
ただ、やっぱり、好きな本やマンガでも「読みやすいもの」は、ある。これもまた事実。
たとえば「おひとり様物語」などはオムニバス形式の短編集ゆえか、食事どきにぴったりなのだ。
(谷川史子氏ご自身も「おひとり様物語」1巻のあとがきマンガで、「今回はふわっとゆるっと読める、箸休めみたいなマンガを描きたいと思った」といった主旨のことを仰っていた記憶がある)
あ、そうそう、奇遇にもわたくしも「おひとり様」なので、食事中はマンガを読むのが当たり前。
テレビもないから、マンガ。たまに本(まれにゲーム)。
食事むきのマンガというのは結構あって、他だとアサイ「木根さんの1人でキネマ」が強い。一食分にちょうどいい。
ただし、下手をするとそのまま食後にごそごそとモニターとPS4と「ダイ・ハード」のDVDを取り出して「イピカイエー!」状態になるから要注意。熱中はご計画的に。
それ以外には、大島弓子の「グーグーだって猫である」も、かなり具合がいい。
かないねこ「文豪ストレイドッグス わん!」も自分の中で「文スト」が盛り上がっている時は大変に適している。
(こうして書いている間に著者名などを検索していたら、「木根さんの1人でキネマ 打ち切り」とかいう不穏な検索候補が…更に「文ストわん」いつの間に5巻まで出てたの…?どうするのこれ。買うの?この流れで買うの?)
話がどんどん逸れてしまった。また元に戻す。
自覚している点として、実は最近はあまり積ん読をしていない。これはウソでもネタでもなく。
何となくそういうタイミングなのか、単なる気分なのか、買った本を少なくとも1週間以内には読了したりしている。
それでも「買った本」だから積ん読を崩しているわけではないが、読書のリズムが良い時期なのだと実感している。
まったく読まない、読めない、という時もあるから、ここぞとばかりに買って読んでいる。
読みやすい本を。楽しく。
先月末に、志駕晃『スマホを落としただけなのに』、冲方丁『十二人の死にたい子どもたち』を、たまには時流に乗ってみようと買い、すぐに読み始め、読み終えた。
断っておくが、良書かどうかという話は、私やこのブログとは一切、関係がない。
ただ、好きか、面白いか、それだけだ。
面白くなかったらそう書くが、それが悪いと結論づけることは絶対にない。
また脇道に偏ってしまった話を、みたび戻す。
こうなると、ここで一つ、決めておきたい線ができてくる。
買ってからどれくらいまでの未読(不読?)期間を積ん読とするか。
250冊の積ん読の前では非常に些末な議題である。
と、あっさり自答してしまうと、そもそも「積ん読」の定義から始めなければならない。非常に面倒だ。
私の感覚では、購入から1ヶ月ていどの放置なら、積ん読とは感じない。
一方で、たとえば50冊をいちどきに買ったのならば、レジに立った時点で(注文ボタンを押した瞬間に)積ん読は発生しているようにも思える。
さんすうができれば、このあたりの相関をうまく解き明かすことも可能なのだろうか。
ならば私はさんすうとは無縁でいたい。
あえて厳密に決めなくとも、すでに250冊の積ん読がある以上、1冊を買うだけで251冊目になるだけ、と言うこともできる。
それでもなお、何かしらの区切りをつけるとしたら、
購入から1ヶ月は積ん読乳児期、
3ヶ月は幼年期、
6ヶ月は思春期、
1年で青年期、
3年で老年期、
6年で末期、
10年以降は超越者。
こんなところだろうか。
やはりまったく意味をなさないが、まあ、老年期あたりで自分に歯止めをかけられるようになったら、私にしては上出来だろう。
いや、問題とすべきはそのとき何冊ほど積んでいるか、か。
それにしても6年後って私…あ、ちょっと思考を放棄しよう。
とりあえず今は、先月末に買った(ということは乳児期)、雪舟えまの『バージンパンケーキ国分寺』を読んでいる。
表紙イラストが池辺葵だなんて、とてもではないが素通りできなかった。
しかしこれがまた予想よりずっと面白いので、ヤマシタトモコがイラストを手がけている『BL古典セレクション1 竹取物語 伊勢物語』が私を呼んでいる…気がする。(敬称略)